このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新宮城跡
【所在地】和歌山県新宮市
             
             (地図は現地案内板に追記)
<アクセス>JR新宮駅より西側登城口まで徒歩約15分。訪問日〜2017年5月

【別 名】丹鶴(たんかく)城、沖見(おきみ)城
12世紀に丹鶴姫がここ丹鶴山に東仙寺を建立し、築城の際、寺は移された。元々は丹鶴姫の住まいであったことから「丹鶴城」とも呼ばれる。また、城からは熊野灘が一望でき、海上を監視することができた。さらに船からは天守が熊野灘航行の目印になったという。新宮城の別名が「沖見城」とよばれたことも海上交通に対する機能を物語っている。
 
▲本丸跡に建つ「丹鶴姫の碑」

▲本丸から熊野灘を望む

【型 式】新宮城は、紀伊半島最長の河川・熊野川の河口山上に築かれ、本丸・鐘ノ丸などを高台に、二ノ丸を平地に配した「平山城」である。
▲熊野川に面して「水ノ手」を設け船着場としており、対岸は三重県になる
▲南側から見た西側登城口(左下)と高台(標高50m)上は鐘ノ丸の石垣

【歴 史】新宮城は、関が原合戦の後、和歌山城主となった浅野幸長の家臣・浅野忠吉が新宮領を与えられて、慶長6年(1601)に築城を開始した城である。元和元年(1615)の一国一城令でいったん廃城となるが、同4年、再建を許され再び築城が始まる。元和5年(1619)、浅野氏にかわり徳川家康の十男・頼宣が紀州に入国し、同時に頼宣の付家老として新宮に水野重仲が入った。重仲は、忠吉の築城工事を継続し、寛永10年(1633)、城は完成をみる。以後、明治の廃藩置県により廃城となるまで、紀州藩新宮領支配の中枢として機能した(現地説明板より)

【構 造】正保元年(1644)、幕府は各藩に命じて城郭・城下図を提出させた。下はその時の紀伊国新宮城之図で、築城まもないころの縄張を正確に描いている。
     
    ①二ノ丸②大手道③松ノ丸④鐘ノ丸⑤水ノ手⑥天守台⑦本丸⑧出丸⑨現在地
 この城は、独立丘陵上にあり、東の最高所に「本丸」と「天守台」が、その西方に「鐘ノ丸」と「松ノ丸」が配置される。本丸の北には「出丸」があり、熊野川の河口、上流方向が見通せる。熊野川岸の「水ノ手」には、船着場と1万俵余の炭が収納できる大規模な炭納屋が設けられ、熊野川流域の備長炭を集積し、江戸などへ出荷する拠点となっていた。また、隣接の現在、保育園となっている場所は「二ノ丸」といい、領国支配の行政機関があった。登城のための「大手道」は、「二ノ丸」の北側に入口があるが、今は建ち並ぶ民家でふさがれ入ることはできない。現在地⑨からこの階段を登ると、途中で元の「大手道」につながり、「松ノ丸」に至る(城絵図と文は現地説明板より。城絵図は囲み数字を追記)

▲二ノ丸側から眺める新宮城(西面)

【文化財区分】国指定史跡/2003年(平成15年)8月27日指定

【遺構】天守台、本丸、鐘ノ丸、松ノ丸などの石垣・虎口・郭跡・井戸

▲本丸の石垣〜石垣上には天守台があったとのことです。

▲天守台〜本城はかつて旅館敷地等となっていたため、天守台の一部が破壊されたり改変されているところがあるようです。
 
<新宮城の現況>

新宮城跡(丹鶴城公園)案内図


(案内図は現地案内板より。一部追記)

▲新宮城跡登城口(上掲案内図の現在地)
 登城口の左側に、右写真の二ノ丸石垣が築かれている。冠木門(模擬)をくぐり階段を直進すると急に右に曲がった大手道に出る。 

▲二ノ丸石垣
 石垣が良好な状態で現存。石垣内は保育園。

▲二ノ丸跡
 山下の上屋敷跡は、現在では保育園、民家が建ち並ぶ。

▲大手道
 新たに整備された登城路を登ると、右に曲がった本来の大手道に合流する。大手道を上がりきった所が松ノ丸の虎口。

▲松ノ丸の虎口
 大手道より見上げる松ノ丸虎口と、右上の石垣は鐘ノ丸の石垣。

▲松ノ丸の虎口
 石段を上がって右に折れて進むと、鐘ノ丸の虎口に至る。

▲鐘ノ丸の枡形虎口
 鐘ノ丸の虎口(入口)は左折れの構造。

▲石段上からみた鐘ノ丸の枡形虎口
 石垣は「切込み接ぎの布積み」手法で積み上げられている。

▲鐘ノ丸跡
 この先を進むと本丸跡となる。

▲本丸跡

▲本丸石垣の武者返し
 反りをつけた石垣は武者返し又は扇の勾配と言われ、石垣全体に反りをつけるのではなく、石垣上部で勾配を強くしていくことで反りを形成。左奥の石段を正面からみたのが右写真となります。

▲本丸虎口への入口
 石段を上がって左に進むと下写真の本丸の枡形虎口となる。右の建物はトイレ。トイレの後ろには天守台がそびえていた。
 
▲本丸入口枡形の石垣〜新宮城の石垣は地元の熊野酸性火成岩を用いた「切込み接ぎの布積み」が主流。
■切込み接ぎ(きりこみはぎ)〜完全に整えた石を隙間なく積み上げる方法。江戸時代初期(元和期1615年以降)に多用されるようになった。石材の積み方により「布積み」と「乱積み」に区別される。
■布積み(ぬのづみ)〜石材を一層づつ横に並べたもので、横方向の目地が通る。

▲上からみた本丸入口枡形の石垣

▲本丸跡の南隅
 この奥の南端に突出た一画には天守が建っていた。

▲本丸の石垣

▲天守台の一部
 天守台の石垣は、昭和20年代に崩壊。天守閣は3層5階であったと推定される。

▲本丸の搦手
 搦手とは裏口のこと、反対に表口を大手という。

▲出丸
 出丸は、本丸から最も熊野川に張り出した丘陵最先端に位置する長方形の郭。本丸側に面して入口の石段が見られる。

▲鐘ノ丸から水ノ手を見下ろす

▲水ノ手から本丸跡を見上げる

▲水ノ手
 熊野川に面した水ノ手は、幕府が諸藩に命じて提出させた「正保城絵図(紀伊国新宮城之図)」(1644年〜1654年頃)にも描かれており、築城当初から新宮城の重要な施設として機能していたと考えられます。ここからは平成6年度の発掘調査で、多数の礎石建物跡が発見されました。建物跡の床面には、砂利が敷かれ炭の粉が堆積していたことから、これらは1万俵もの炭俵が収納可能な「炭納屋群」と想定されました。
 城内消費用としては多すぎる数量であるため、熊野川流域の新宮炭(備長炭)を専売していた新宮城主水野氏の対外的な経済活動用の施設であると考えられています。このような城内での経済施設の発見は全国的にも例がなく、ここは、近世城郭の経済的側面を実証するものとして、極めて重要な場所であると言えます。(現地説明板より)
 
▲水ノ手保存修理工事
 新宮城は、平成6年度の水ノ手における炭納屋(炭の倉庫)遺構の発見をきっかけに全域の調査が進めれれ、平成15年8月に国の史跡指定を受けました。平成16年度からは、貴重な文化財としての価値を後世に伝えるために、港湾部の発掘調査、石垣の修復、炭納屋遺構の整備等の保存修理工事を実施しました。(写真と文は現地説明板より)

▲発掘調査で新たに判明したこと
 調査前は2mの高さで見えていた熊野川沿いの石垣が、実は地中にも3m以上の深さで埋もれ、本来は高さ5mを超えるもので、熊野川からの敵襲あるいは洪水に備えた強固な姿であることがわかりました。(現地説明板より)

▲炭納屋遺構(床面展示)


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