このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

▲函館空港側から望む志苔館跡
 国道278号(恵山国道)と函館空港に挟まれた海岸段丘に位置し、室町時代の領主だった小林重弘が築いたといわれている。

▲志苔館跡の土塁上から望む函館空港

▲志海苔(しのり)
 志苔館跡からの眺めで、館跡のすぐ下にある。

国史跡  志苔館跡  概略

所在地
■北海道函館市志海苔町(しのりちょう)

■交通
函館バス・志海苔バス停から徒歩5分。
函館駅から約9km。

※駐車場はないので、志苔館跡から函館空港よりに(北に)少し行くと、空港に隣接した「志海苔ふれあい公園」があり、そこが利用できます。

歴史と保存について
【歴史】
   昭和9年8月9日史跡指定
   昭和52年4月27日史跡追加指定
 ■志苔館跡は、函館市の中心部から約9km離れた標高25m程の海岸段丘南端部に位置している。

 西側には志海苔川が流れ、南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。

 館跡は、ほぼ長方形をなし、四方は高さ2〜4m、幅10〜15mの土塁で囲まれ、その外側には、壕が巡らされている。郭内は、東西70〜80m、南北50〜65mで、約4,100㎡の広さがある。また、館跡の正面にあたる西側には、二重に壕が掘られ、さらに外側に小土塁が巡らされている。

 松前藩の史書「新羅之記録」によると、室町時代頃、道南地方には12の和人の館があり、志苔館跡もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されている。この記述によれば、康生2年(1456)志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年5月14日志苔館が攻め落とされたといわれている。

 戦いの後、再び小林氏が館に居住していたが、永正9年(1512)4月16日にアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討死したといわれている。その後は、小林氏が松前藩に従属したために、志苔館は廃館となった「文は現地説明板より転載」



【保存】
 ■志苔館が廃館になった16世紀中期以降、館跡がどのように使用されていたかは不明ですが、明治時代にはかなり荒廃が進んでいたようです。このため、地元の人達の手により保存の努力がなされ、そのことは郭内に残されている記念碑からもうかがい知ることができます。

 大正時代には、北海道庁による調査が行われ、保存状態が良好なことから、昭和9年に史跡に指定され、昭和52年には指定地周辺部も追加指定を 受けています。函館市では、史跡保存の万全を期すため、国・道の補助を受けて、昭和51年度から、「史跡志苔館跡土地買上事業」を実施して指定地の公有化を進めるとともに、昭和58年度から62年度にかけて、「史跡志苔館跡環境整備事業」を実施しました。

 この環境整備事業により、郭内外の遺構確認発掘調査を実施し、志苔館が構築された当時の様子を明らかにするとともに、調査結果に基づいて遺 構の復原・整備を実施しました。また、あずまや等の施設を設置し、この館跡を歴史学習の場や市民の憩いの場として広く利用していただくよう整備してまいりました。
 「文は現地説明板より転載」
※写真左側の道を上がった処にある石碑と説明板の右手が、大手に相当する二重堀切と虎口になる。


    
    ■二重堀切


縄張
    
    ■志苔館の縄張は、土塁と堀に囲まれた台形の館で、三方を空堀で切断し独立させた形態をとる。大手に相当するのは、西側の二重堀切の部分で、二本の堀の間の土塁状の園路を通り、90度東へ曲がって土橋を渡り門跡の処から館内へ入る。


館内側から見た二重堀切
 茶色の舗装された道が園路で、内側の堀は土橋、
外側(海側)の堀は木橋となっている。


館を囲む土塁
 右側が館内(郭内)。右端の凹形が門跡。後方は津軽海峡と函館山。

郭外遺構
 ■郭外には、主に外敵からの防御を目的とした壕、土塁、門、柵、それに橋、土橋等が配されている。壕は、土塁外側の四方に巡らされている。館の開口部に当たる西側には、二重の壕が掘られ、北、東、南側は自然の沢を利用して壕としている。

 発掘調査の結果、館を構築した当時は、西側に外柵を設け、その中央の門を通過し、薬研(やげん)の二重壕に架けられた橋を渡り、さらに門を通過して郭内に入る構造であったことがわかった。

 その後、郭外は郭内とともに造り替えられていった。外柵は埋められて土塁が築かれ、郭内側の壕も薬研から箱薬研へ、また橋も土橋へと移行した。ここには、館の構築当時の姿を、できるだけ復原するとともに、その後に構築された土塁、土橋等も保護・保存し、館の変遷がわかるようにしている。

※「文、写真は郭内説明板より」

    
    館を囲む土塁

    
    二重堀切と虎口
     説明板の右が外側の堀に架かる木橋。左が内側の堀に築かれた土橋と、土塁に挟まれた館への入口(虎口)となる。

■郭内からの眺め  土塁と土塁の間が門跡となり、その外側は二重堀切。 後方は、津軽海峡と函館山。  





東側の土塁
 土塁上から見た土塁の外側部分と堀。右側は、郭内側。


土塁と自然の沢を利用した堀

郭内遺構

 ■郭内には、主に14世紀末から15世紀にかけて存在していたと考えられる建物、柵、塀、井戸などの遺構が発見されている。

 建物跡は7棟分発見されているが、柱と柱の間の寸法の違いから大きく三つの時代に分類することができる。

 建築時期からみて、14世紀末から15世紀初頭頃と推定される柱間寸法7尺(約2.12m)以上のものと、15世紀中頃と推定される柱間寸法6.5尺(約1.97m)のものが掘立柱の建物である。16世紀以降と推定される柱間寸法6尺(約1.82m)のものは礎石を使用していることが明らかとなっている。

 また建物跡の周囲には、囲いや敷地割を目的とした柵と塀の跡が発見されている。当初は柵が設置され、後に塀へ変わって行ったものと考えられる。

 これらの変遷を想定すると、右図のようになる。
               「文と想定図は郭内説明板より」

建物跡
 ここには、志苔館が築かれた初期の頃と推定される14世紀末から
15世紀初頭(南北朝時代から室町時代初期)の門、建物、柵、井戸の
遺構を表示している。


柵跡

井戸跡と説明板
 発掘調査により、地表下約4mのところから木製の井戸枠が発見
されている。この井戸は郭内に現存した唯一の井戸である。


郭内の様子
 発掘調査により、さまざまな遺構が検出されたが、
調査終了後、埋め戻し保存をしている。

出土遺物
 発掘調査による出土遺物には、陶磁器類、金属製品、石製品、木製品等の遺物がある。  陶磁器類は、舶載陶磁器(中国製陶磁器)と国産陶器に区分され、個数にして七十六点出土している。舶載陶磁器は青磁、白磁、鉄釉(てつゆ)、国産陶器は瀬戸、越前、珠洲(すず)、かわらけ等のものがある。  金属製品は、古銭二十二点、銅製品十八点、鉄製品二百七十九点が出土している。  石製品は、硯・砥石が八点、木製品は、井戸枠、箸、曲物、桶の一部等が出土している。  (文・写真は郭内説明板より転載)

志苔館跡からの眺め

志海苔町の町並
 後方は津軽海峡と函館山および函館市街。函館山の左側(東端)の岬は立待岬。

函館山から望む志苔館跡


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