このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
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[四稜郭/所在地]北海道函館市陣川町 [権現台場/所在地]北海道函館市神山 | ||||
【交通アクセス】 ●「四稜郭」車の場合〜347号と100号が交差する「美原3」を北に進み、セヴンイレブンのある信号を右折、亀田川を越えて変則五差路を左折し、数百メートル行くと左手にあり、看板が立っています(交通手段は車をお勧めします)。「2010年(平成22年)9月現在」 ●「権現台場(ごんげんだいば)」〜四稜郭から変則五差路を直進し、やや下りぎみの道を少し進んだ左手。 | ||||
【左上】 四稜郭の駐車場(無料)。三角屋根の建物はトイレ。その後方が四稜郭。 【右上】 駐車場からの四稜郭への入口。奥後方の土塁が四稜郭。 【左】 四稜郭付近から函館山を望む。 | ||||
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■明治2年(1869)春、五稜郭にたてこもる旧幕府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約3キロの緩斜面台地にも洋式の台場を急造した。これが四稜郭である。 四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空壕をめぐらし、郭内(面積2、300平方メートル)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。 なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約200名と付近の村民(赤川・神山・鍛冶村)約100名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させたといわれている。 明治2年5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を開始した。同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し、四稜郭の攻撃を開始した。 松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防衛に努めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。 5月18日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった。 (図と文は、現地説明板より) | ||||
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■旧幕府脱走軍の降伏という形で箱館戦争が終結した後、四稜郭はかなり荒廃がすすんでいました。しかし、昭和9年に史跡に指定されて以来、地元の人たちをはじめ、市民の手厚い保護を受けて、今日までその原形を保つことができました。 函館市では、この史跡保存に万全を期すため、昭和44年度から47年度にかけて、国・道の補助を受け、土塁の修復等の環境整備工事を実施したところですが、さらに平成2年度において、あずまや等の施設を設置し、この史跡を歴史学習や市民の憩いの場として、広く利用していただけるよう整備いたしました。 函館市教育委員会 (図と文は現地説明板より。図の白文字は加筆。) | ||||
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▼虎口(出入口) | ||||
土塁造りの枡形虎口 四稜形の土塁造りから、四稜郭と名づけられた。現在は公園として整備され、土塁も復元されている。 | ||||
虎口 通路の突き当たりを左に進むと郭内となる。 | 虎口 横(西側)から見た虎口。土塁左手が郭内。 | |||
虎口 横(東側)から見た虎口。 | 郭内から見た虎口 通路をL字形に折れ曲がらせる工夫が図られている。 | |||
▼稜堡 | ||||
稜堡とよばれる突角 稜堡は4ヶ所築かれており、各4ヶ所には突角の砲台(大砲を撃つ場所)に大砲を昇降させるための土盛りのスロープが造られている。 | ||||
▼土塁と空壕 | ||||
土塁 稜堡の突角部分の土塁で、この上は砲台となる。 | ||||
土塁と空壕 後方が枡形虎口。 | 土塁 土塁右側は郭内。土塁左側は自然広場としてベンチが置かれている。 | |||
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大鳥居 樹木が覆って見にくいですが、参道入口の両脇に建つ燈籠の後に残る。ここは、現在、神山稲荷神社となっている。 | 権現台場跡の土塁 | |||
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