このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
【古代寺院跡】
(下)の賞田廃寺跡全体図の現在地より「西塔」辺りの眺め
現地説明板より
現在残されている巨石は、古代寺院跡の塔心礎で、県下最大級の大きさである。心礎中央部にえぐられた六角形のくぼみは、塔の芯柱を立てたほぞあなで、その中心の深い穴は仏舎利を納めるためのもの。有力な豪族であった上道氏の拠点に位置し、岡山平野でも有数の古代寺院跡である。昭和47・48年度(1972・73)に塔心礎を中心とした発掘調査が行われ、回廊・築地・塔・講堂・南大門・中門・北門等の基礎と想定される遺構が検出され、伽藍の配置が復元されているが、未確定である。出土瓦等から、白鳳時代後葉から平安時代後葉まで存立していたと想定されており、賞田廃寺跡と同様、凝灰岩製檀上積基壇の石材と想定される部材も出土している。そのほか、奈良三彩片、須惠器・土師器容器が出土している。下層には弥生時代の住居や墓も検出された。
発掘調査で判明した伽藍の配置
上から見た塔心礎
塔心礎
国指定史跡 幡多廃寺塔跡 昭和19年11月7日指定
(上)中世本堂跡
(右)現地説明板より
賞田廃寺跡(しょうだはいじあと) <所在地=岡山市中区賞田> 備前国庁跡から東へ向かい、高島小学校のある交差点を左折して行った突当り。龍ノ口山の南西麓。 |
幡多廃寺塔跡(はたはいじとうあと) <所在地=岡山市中区赤田> 清水地下道南バス停から東へ少し行った所。備前自動車教習所の南側。 |
賞田廃寺は岡山県で最古の古代寺院の一つです。地名をとって賞田廃寺と呼んでいます。7世紀中頃、在地豪族の上道臣により造営されたと考えられています。おなじ上道臣(かみつみちのおみ)の墓といわれる唐人塚古墳(かろうどづかこふん)が西の尾根の反対側に造られています。創建時は出土した瓦の量から小さな建物と考えられます。7世紀後半には金堂が、8世紀中頃から東塔と西塔が建てられて、東塔と金堂が接近した変則的な双塔式伽藍として整備されました。東塔と西塔には凝灰岩の切石を使用した壇正積基壇(だんじょうづみきだん)が築かれています。これは宮殿や畿内の有力寺院に採用される格式の高いものです。地方寺院ではきわめて珍しく、寺が大変栄えていたことがわかります。高くそびえる二つの塔は朱色に彩られ、遠く道行く人々の目をも引きつけたことでしょう。金堂跡の整備にあたり、もとは賞田廃寺から移された礎石を脇田山安養寺からご提供頂きました。安養寺は報恩大師開基と伝えられる備前四十八ヵ寺の一つです。礎石は明治18年に本堂が焼失したあとも、建て直された本堂前で大切に守られてきたものです。
国史跡指定年月日 昭和47(1972)年3月16日
史跡指定面積 19,934.77㎡ (文は現地説明板より。一部追加)
塀跡 金堂や塔などの寺の主要建物は、南北約90m東西約140mの広さを塀(へい)で囲まれていました。これは、南は柱穴列と溝から、北は地山の自然地形や土盛りから、東は幅2mで並行する溝からわかりました。西は尾根で代用していたと思われます。南の塀跡は、直径60〜100㎝深さ60〜80㎝の柱穴(はしらあな)が約2.1m間隔でならんでいます。柱の根元が残っているものもあり、水に強いコウヤマキの木が利用されていることがわかりました。柱穴列の北には平行して幅2m深さ90㎝の溝があります。南の塀は、柱穴列や北側の溝、出土物から9〜10世紀頃の掘立柱塀(ほったてばしらべい)と考えられます。
(上)復元された塀跡。(右)現地説明板
西塔(さいとう) 西塔は東塔と同様に、凝灰岩製壇正積基壇で一辺10.8m高さ0.9mに復元できます。現在は、西辺の北半分と東階段の基礎部分のみが残っています。階段は東西二ヶ所です。基壇外周には一辺約16m四方で列石があり、南辺中央には幅3m奥行き1.5mで三段の階段が設置されています。外周の列石は、斜面上位となる北辺では小振りの石を平置きしただけですが、南になるにしたがって石が大きくなり、下位の南辺では高さ約1mに積んでいます。
整備では、南階段を実物表示し、基壇をもとの高さにあわせて復元しています。このため、南側は基礎から上面までありますが、遺構の残る北側では遺構を保護して、上部のみの復元になっています。上面の花崗岩は柱のもとの位置を示しています。
南階段
復元中の西塔基壇(南側)
北側から見た復元された金堂(こんどう)基壇〜金堂基壇の左は東塔基壇(復元)、前方奥は高島小学校
金堂は本尊を安置する、寺の中心となる建物です。賞田廃寺には7世紀後半に建てられました。東西5間南北4間で2.4mの間隔に柱を立てていたことがわかりました。現存する礎石は花崗岩製で、直径50㎝高さ3㎝の円形柱座をつくり、中央にほぞ孔(あな)を設けています。基壇は、黄色や黒色の土をたがいちがいに堅くつき固めて、東西15.5m南北12.6m高さ1.5mの大きさに造られました。13世紀になって外周を掘り下げられたため基壇外装は残っていませんでした。周囲から大量の瓦が出土しましたが、大半が7世紀後半の瓦で、金堂は14世紀前半に火災にあって焼失するまでの約700年間、修理を受けながらも古来の姿をとどめていたと思われます。整備にあたって、現地に残る礎石を実物展示し、もと賞田廃寺で使われていた礎石を脇田山安養寺や高島小学校から提供頂いて復元した南辺に置き、不足分はあらたに複製補充しています。
【賞田廃寺跡全体図】
史跡賞田廃寺跡 |
幡多廃寺塔跡 |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |