このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
本丸内に建つ細川忠興と玉の像
管理棟の資料展示室に掲げられた忠興と玉の絵
本丸跡南辺を望む。水濠、鉢巻石垣、腰巻石垣、土塀、大手橋、城門などが復元。櫓風の建物は管理棟。その後方は沼田丸。
【交通ガイド】
JR長岡京駅から徒歩10分
神足公園辺りにはかって、神足城が存在し、勝龍寺城築城に際して曲輪の一部として取り込んだ。公園にある神足神社の境内一帯には空堀と土塁が残る
■地域別訪問城に戻る
細川ガラシャは明智光秀の娘として生まれ、戦国時代の武将細川忠興の妻となる。ガラシャは洗礼名で、本名は玉。
関ヶ原の戦いにおいて、忠興が徳川方についたため、豊臣方から人質として大阪城入城を強要されたが、それを拒み自殺した。
明智光秀公 三女玉
お輿入れの城
【勝龍寺城略記】 勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春(ほそかわよりはる)が暦応2年(1339)に築いたと伝わる。城は京都西南部に位置し西国街道と久我畷を同時に押さえうる交通の要所に築かれた。応仁・文明の乱(1467〜1477)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。戦国時代になると、織田信長からこの城を与えられた細川藤孝(幽斎)が元亀2年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正10年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。 ところで、この城は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ夫人)が16歳で藤孝の子忠興(16歳)のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。 城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた。北東の神足神社付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空堀跡が残されている。現在は、城址に櫓風管理棟(資料展示室)や庭園などを備えた勝竜寺城公園となっている。 |
本丸南側に復元された城門。大手橋を渡り、高麗門をくぐると櫓風管理棟が建つ。 | 本丸北東角の復元「多聞櫓」。中には、弓矢や槍、鉄砲、火薬などの武器が納められていた。 |
本丸東側の復元された堀、腰巻石垣、鉢巻石垣、土塁、土塀。 | 本丸の東辺に築かれた東辺土塁(城内側)。 |
北門跡。本丸の北西隅で発見された出入口。この出入口を囲む土塁は高さ2メートル以上の石垣があり、立派な門が建てられていた。 | 井戸跡。城にとって最も大切な井戸は、本丸内から4か所で発掘された。 |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |