このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

■勝瑞城跡(しょうずいじょうあと)と勝瑞館跡(しょうずいやかたあと)をあわせて勝瑞城館跡(しょうずいじょうかんあと)と呼ぶ。
 勝瑞城跡は、平成6〜10年にかけて 発掘調査が行われ勝瑞城跡公園として整備された。勝瑞館跡は、現在(平成21年11月)も発掘調査が継続されて当時の姿を現しつつあるが、いまだ不明な点が多々あり、その全容解明は今後の課題として残されている。いずれ藍住町教育委員会の発掘調査成果をもとに史跡公園として整備されることとなっている。

▲勝瑞城跡

▲勝瑞館跡
▼勝瑞城跡と勝瑞館跡

 マンションの右後方に生い茂る樹木の所が勝瑞城跡。マンション手前左が勝瑞館跡となり、現在(平成21年11月現在)も、発掘調査が行われている。
 勝瑞城館跡発掘調査の歩み(現地説明会資料より)
勝瑞城跡の調査
 勝瑞城跡は東西約80m、南北約60mで平面形は不整方形をしています。従来、細川氏の守護館跡であり、三好義賢、長治、存保の三代にわたる居館跡であるとされてきたもので、昭和31年に県史跡に指定され保護されてきました。
 城跡内は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地となっていて、江戸時代の儒学者那波魯堂(なはろどう)の撰による慰霊文が刻まれた勝瑞義家碑や三好三代の墓があります。
 平成6年度以降行われた発掘調査の結果、この城は16世紀末につくられ、短期間のうちに廃絶したものであることがわかりました。土佐の長宗我部氏による勝瑞侵攻に備え、最後の砦として築かれた城の可能性が高くなったのです。

館跡はどこ
 では、守護館跡や三好氏の居館跡は、どこにあったのでしょうか。この疑問を解決するため、従来の研究成果の再検証や地名・伝承の検討、明治時代初頭の地籍図や昭和20年代の米軍航空写真を使い、中世にさかのぼる地割の復元を試みました。
 その結果、勝瑞城跡の南約150mの地点に、東西約120m、南北約150mの方形区画を見つけました。平成9〜12年度の確認調査により、方形区画は幅約12mの濠に囲まれた、東西約120m、南北約150mの方形区画であることが明らかとなりました。
 その成立・廃絶時期や規模・構造、出土遺物の質・量から16世紀後半に阿波支配の実権を握った三好義賢の居館跡ではないかと推定されたのです。

 そこで町教委と県教委は、方形区画を『勝瑞館跡』とし『勝瑞城跡』とあわせて『勝瑞城館跡』と呼ぶことにしました。平成13年1月29日、勝瑞城跡8568.38㎡、勝瑞館跡33246.96㎡が国史跡に指定されています。
 平成12・13年度の調査では館跡の東側の調査を行い大規模な礎石建物跡がみつかりました。これにより館跡が東側に広がる可能性がでてきました。平成16年度からは『室町再生プロジェクト』として、規模を拡大して調査を開始しました。平成16・17年度の調査により、館内を分断して西へのびる幅11mの東西濠や発掘庭園としては国内最大級の池庭が発掘され、永禄7年と記された卒塔婆なども出土しました。平成19年2月7日には、この館跡の東側部分8800㎡が国史跡に追加指定されました。現在では、大規模な濠に区画された複数の郭からなる珍しい複郭式の館跡であることが推定されています。
勝瑞城跡
 勝瑞城は、室町時代の阿波国守護細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る中世城郭の中では珍しい平城である。15世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移したとされ、
 その後、勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となった。
 
 天文22年(1553)、家臣の三好義賢(後に実休と号する)が守護細川持隆を殺害し、その実権を奪った。このころ三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。勝瑞は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、畿内で活躍した細川・三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、畿内と直結した文化都市としても全盛を誇った。
 そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえる。また、城下には多くの寺院が建ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていた。本丸跡の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されている。
 
 天正10年(1582)、土佐の長宗我部元親は十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。8月28日、存保は中冨川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に籠城したが9月21日、讃岐へ退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすこととなった。その後、天正13年(1585)の蜂須賀氏の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退した。
 当地は16世紀末に築かれた詰の城で、館跡とともに国史跡に指定された。城内にある見性寺は、三好氏の菩提寺であり、当時は城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地へ移転してきた。境内には、之長・元長・義賢・長治らの墓が並んでいる。(文は現地説明板より)
【勝瑞城跡公園のみどころ】

(図は現地説明会資料を参考にして作図)

▲駐車場・トイレ(右手前)・休憩所(二階建)

▲城内に設けられた休憩所

▲休憩所から城内への道

▲休憩所側から見た濠と土塁。石橋右手の濠は、復元された濠。

▲濠は復元されたもので、土塁は、現在この部分だけ確認することができる

▲現存土塁跡
 当時は土塁が周囲に巡っていたことが、発掘調査によって確認された。濠を掘った際の土を盛り上げてつき固めて構築している。平成9年に土塁から濠にかけて発掘調査を実施し、当時土塁は基底部幅約12m、高さ約2.5m、濠は上部幅約13mの大規模なものであったことが確認された。また、濠からは多くの瓦が出土した。(文は現地案内板より)
<図は現地説明会資料を参考にして作図>

▲復元土塁と矢竹
 やだけ(矢竹)〜イネ科のタケササ類。シノダケの名もある。関東以南に広く自生し、また矢を作るために栽培される大型のササ。節間が長く、矢を作るのに適すので矢竹の名がある。

▲復元土塁(城外側)

▲東屋(左奥)と勝瑞義家碑

▲勝瑞義家碑と復元土塁の矢竹

▲勝瑞城跡北東隅〜復元土塁と濠。

▲勝瑞義家碑

▲東側から見た城跡と見性寺本堂
 左手マンションの後方が勝瑞館跡になる。

▲南側入口から見た城跡
 三好氏三代の墓と奥後方は勝瑞義家碑。
勝瑞館跡
勝瑞館跡の概要
 勝瑞城館跡は、その成立・廃絶時期や規模・構造、出土遺物の質・量から16世紀後半に阿波支配の実権を握った三好氏の居館跡と推定されている。

 発掘調査では、上幅10mを超す大規模な濠跡が各所で発見されており、濠に囲まれた複数の曲輪が存在することが推定される。曲輪の一つからは枯山水庭園と会所跡と推定される礎石建物跡、また別の曲輪からは池泉庭園と主殿に想定される礎石建物跡が検出されており、千利休らと親交のあった茶人武将としても有名な三好義賢らの文化的な活躍が垣間見られている。

 これらの調査の結果、平成13年1月29日に国史跡に指定され、さらに平成19年2月7日にも追加指定を受けた(現地資料より)
 
発掘調査現場の様子

 
▼勝瑞館跡発掘調査現場の説明板▼

会所建物復元中(平成21年11月現在)

 ▼勝瑞城館跡周辺図

JR高徳線「勝瑞駅」から徒歩10分

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勝瑞城館跡
国史跡
[所在地]徳島県板野郡藍住町

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