このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

約450年間におよぶ琉球統一王朝の「王城」「居城」〜25人の王がこの城に君臨した

首里城しゅりじょう
沖縄県那覇市首里当蔵町

世界文化遺産
国指定史跡

首里城の中心部、御庭を中心に建つ北殿、正殿を望む

 沖縄の城の特徴
      
(沖縄では城のことを「グスク」と呼ぶ)
■石垣が複雑な曲線を描いて続き、勾配も垂直に近い急なもので、反りがない。
■城門は石造アーチ式の門を用いる。
■城門には木造の楼閣を上げるが、隅櫓に相当する建物がない。
■水堀を持たない。
■首里城の正殿などにみられるように、日本の書院造の御殿とは異なり、中国や韓国の宮殿建築に類似する。
※沖縄独特の城の形式は、本土の近世城郭とは異なり、明らかに大陸起源のものである。

■首里城の創建は14世紀頃といわれているが、詳細は不明。
その後、1406年に尚巴志(しょう はし)が琉球国支配のための居城として以来、1879年、最後の国王・尚泰(しょう たい)が明治政府に明け渡すまで、約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心地として栄華を誇った。 首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など、琉球独特の文化が花開いた。

    ▼琉球王国の栄華を物語る世界遺産
鮮やかな朱色に彩られた首里城探訪<スライドショー>
 

沖縄の歩み
琉球王朝時代
 琉球にはかつて、中国の冊封下[(さくほうか)中国から、その国の王であることを承認してもらうこと]に「三山(さんざん)」と呼ばれる北山(ほくざん)・中山(ちゅうざん)・南山(なんざん)の3つの王国があった。1429年、中山の尚 巴志が北山、南山を攻め落として三山を統一。首里城において琉球王国を樹立。琉球王朝は1879年(明治12)の廃藩置県まで約450年間続いた。
薩摩支配時代
 1609年、薩摩の島津家久に攻められて首里城が落とされると、薩摩藩の支配となり、これは中国には秘密にされ、琉球国は中国と日本への領属を余儀なくされた。明治時代になると、廃藩置県で政府は琉球を強引に日本領に組み入れ沖縄県とする。
第二次世界大戦・米国支配時
 1945年、アメリカ軍が沖縄に上陸し、日本で唯一地上戦が行われた。首里城をはじめ、数々の文化財も破壊されてしまった。敗戦後、沖縄は日本から切り離されて、長くアメリカに占領された。1958年(昭和33)、守礼門復元される。
本土復帰
 1972年(昭和47)、念願の「祖国復帰」を果たす。1989年、首里城復元工事が始まり、1992年(平成4年)に正殿等が復元された。

■1945年の沖縄戦で灰燼に帰した首里城は、1992年(平成4)、沖縄の本土復帰20周年を記念して国営公園として復元された。鮮やかな朱色に彩られたその姿は、王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂であり、沖縄のシンボルそのものといえる。

【首里城から望む那覇市街】

玉陵(守礼門の西側)。観覧料金・要

識名園前バス停より徒歩2分。観覧料金・要

(現地案内パンフレット引用)

シーサー

国王の王冠(複製品)

首里城マップ

▼識名園を訪ねる<スライドショー>

▼首里城周辺の文化財を巡る<スライドショー>

守礼門(しゅれいもん)
大手道の綾門大道(あやじょううふみち)には、二つの門があった。入口が「中山門(ちゅうざんもん)」でこれが国門(現在はない)、中門が守礼門。扁額には「守禮之邦(しゅれいのくに)」とある。

【首里城正殿】中山王尚巴志が琉球王国を統一した15世紀前半から、国王の居城として政治・経済・文化の中心であった建物。日本・琉球・中国の建築様式が融合している。平成4年復元。

■地域別訪問城に戻る

参考文献〜現地案内パンフレット、小学館刊「城のつくり方図典」「名城をゆく」

【首里城アクセス】
■モノレール
首里駅または儀保駅にて下車、徒歩約15分で守礼門に到着

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