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下赤坂城

【2008年2月訪問】

●楠木正成は永仁2年(1294年)、千早赤阪村の水分(すいぶん)で誕生したと伝えられている。
文禄年間に増田長盛が豊臣秀吉の命をうけ、土壇を築き、建武以後、楠木邸にあった百日紅を移植したという記録が残っている。
また、元禄年間には、領主石川総茂が保護を加え、その後、明治8年、大久保利通が楠公遺跡めぐりの際、ここに石碑を建立し顕彰した。

所在地大阪府南河内郡千早赤阪村森屋
別名赤阪城
地形種類金剛山地から延びる丘陵の一端、甲取山に築かれた中世山城。標高185,7m、比高61,4m
築城者楠木正成(1294〜1336)が後醍醐天皇に拝謁して築いた城
築城年1331年(元弘元年)
遺構当時の面影をうかがうのは困難
文化財指定区分昭和9年3月に国史跡の指定を受ける

▼史跡内には、平成11年7月に農林水産省により、「日本の棚田百選」に選定された美しい棚田が位置する

▼この道を行くと、千早赤阪中学校の裏手にある城址碑にたどり着きます

▼中学校裏手の城址碑。右手前方には、「日本の棚田百選」に選ばれた棚田が広がっています

楠公誕生地

▼城跡の丘陵地帯

▼千早赤阪村役場後方の下赤坂城跡

▼千早赤阪中学校の裏手に建つ城址碑


 ■下赤坂城(しもあかさかじょう)は金剛支脈の自然地形を利用して築城されたもので、千早赤阪中学校の裏手、「赤坂城址」の碑の建っているところから、村役場方向、北にかけての丘陵一帯です。

 頂上部は四方の展望がきき、河内平野から金剛の千早城へ攻め入ろうとした場合には、まず第一の関門の役をはたしたのがこの下赤坂城でした。

 元弘元年(1331)、鎌倉幕府倒幕計画が発覚し後醍醐天皇が笠置山へ逃れた時、笠置がもし危なくなれば、ここに天皇を迎えようとして楠木正成が急いで築城したといわれている。

 しかし、笠置が陥り、後醍醐天皇は幕府軍に捕らえられ、笠置の城を陥れた鎌倉幕府勢は、勢いに乗じて下赤坂城へ攻め寄せた。この城はにわか造りの城のため落城、正成は金剛山中へと後退した。

 その後、元弘2年(1332)に正成は再起し、鎌倉方の湯浅定佛を奇襲、下赤坂城を奪い返す。約1年後、この城は鎌倉勢のため再び落城するが、千早城での籠城の間に鎌倉幕府は滅亡した。

 城としての遺構は明確でなく、千早赤阪村役場の上付近が主郭(本丸)であったといわれている(千早赤阪中学校の裏手の説もある)

【下赤坂城出土・採集遺物】 城跡から多くの土器片などが出土・採集されている。 (村立郷土資料館にて撮影)

※下赤坂城から1.2kmの所に、「歴史の丘公園」があり、そこに楠公誕生地があります。公園内には、道の駅「ちはやあかさか」、郷土資料館なども建っています。

楠木正成について千早赤阪楠公史跡保存会発行の冊子を参考にして作成>
 ●楠木正成(1924〜1336)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した人物です。正成が生きた時代は、大きく時代が変わるときでした。140年あまり続いた鎌倉幕府は衰え、秩序がくずれていました。幕府の得宗政治(執権北条家の嫡男による専制政治)に不満を抱いていた武士たちは、各地で兵を挙げ、内乱状態となっていました。そのなかで、政治を武士から天皇に返そうという気運が高まり、後醍醐天皇は、反幕府の武士たちに決起をうながし、巻き返しをはかります。あちこちで討幕ののろしが上がる中、ひときわ目立ったのが河内の楠木正成に代表される「悪党」と呼ばれる武士団です。(「悪党」〜御家人のように幕府の所領を基盤とした定住者ではなく、荘官や有力農民、または商工業、流通業などに携わる武士のこと。つまり、体制側からみて「悪」であった。後醍醐天皇は悪党を利用して幕府打倒に乗り出した)
 ●元徳3年(1331)、正成は後醍醐天皇(1288〜1339)の皇子護良親王(もりよししんのう)とあわせて、鎌倉幕府に対抗するため下赤坂城で兵を挙げました。下赤坂城にも鎌倉幕府軍が攻めて来ました。一度は、下赤坂城は鎌倉勢に奪われますが、翌年に上赤坂城を築城し下赤坂城を奪い戻しました。元弘3年(1333)には長期間千早城に立て籠もっています。戦では、正成は得意のゲリラ戦法で鎌倉勢を悩ましました。自然の地形を利用し、敵から攻め込みにくい山の上に城を造りました。城の上から石・木材・煮え湯・糞尿を落として、敵を攻撃しました。鎌倉勢が苦戦している情報は、日本国中に流れ注目されていました。この間に、新田義貞らは鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府(11代執権・北条高時)は滅亡しました。
 ●そのため、正成は鎌倉幕府を滅亡に導いた功労者として、後醍醐天皇から従五位下検非違使(現在の警察・検察・裁判を行う職)に任命され、南北朝時代の政治(建武の中興)の中心にはいって行きます。しかし、天皇を中心とした政治に疑問を持った足利尊氏は、再び武士による政治を実現するために兵を挙げました。これにたいして、正成は天皇側の武士として立ち上がりましたが、建武3年(1336)、兵庫県神戸市湊川の戦いで破れ自害しました。現在、その跡には湊川時神社が建てられています。
<参考資料>社団法人「千早赤阪楠公史跡保存会」冊子

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