このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

▼山頂からの眺め

 しんじょうやま
新庄山城
(別名)奈良部城

{所在地}岡山市竹原

【新庄山城 概略】
 天文18年(1549)春、乙子城主宇喜多直家は、砥石城主浮田大和が主君浦上宗景に背いたとし、宗景の軍勢と協力し砥石城を攻め、大和を敗死させた。このときの恩賞として宗景から奈良部を賜り、奈良部の山上に新庄山城を築き、乙子城から移ってきた。『室町時代後期の天文17年頃、浦上宗景が攻めて城は焼失している』

 永禄2年(1559)、亀山城主中山備中守と砥石城主島村豊後守とが、主君宗景に対し謀反の噂があった。宗景は直家に命じてこれを誘殺させた。この功により直家は沼城(別名亀山城)を賜り新庄山城から移った。新庄山城は家臣に守らせていたが、直家が岡山城主となったとき、この城は役目を終え廃城となった。なお、本丸跡から焼麦が現在も出土する。

◆山頂の新庄山城跡

▼途中の登城道。

▼鳥居をくぐって右にのぼって行く。

▼登城口周辺の様子。ここから山頂まで徒歩15分。

▼新庄山城登城口に掲げている案内図(一部加筆)

●上の写真の登城口辺りの様子。
砂川を背にして(東方向より)、左が登城口、右が上道公園の南端しになる。

新庄山城全景〜手前の川は砂川。城の堀の役目を果たしていたと考えられる

▼新庄山城周辺図新庄山城跡と沼城との直線距離は約2km。宇喜多直家は新庄山城に10年間居城し、その後、沼城に移る。

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