このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

白石城(しろいしじょう)概略◆
所在地宮城県白石市益岡町
別名益(枡)岡城
地形種類白石市の中心部、標高76mの丘上に築かれた平山城
天守復元天守。平成7年(1995)、木造で、3重3階層塔型の天守復元
再建造物城は明治期に入って破却されたが、平成7年(1995)に天守(三階櫓)、大手一ノ御門、二ノ御門が木造で復元。土塀・天守台(野面積)も組み上げられた。
遺構移築城門・石垣・井戸
歴史 天正19年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、会津若松城とともに蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は、白石城を築城し城主となった。慶長3年(1598)上杉領となるや上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。
 慶長5年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣片倉小十朗景綱によって大改修がなされ、以後明治維新まで260余年間片倉氏の居城となった。元和の一国一城令以後も仙台藩は仙台城と白石城の2城が許され、明治維新には奥羽越31列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であった。
大手一ノ御門・ニノ御門

■天守より見た大手一ノ御門と大手ニノ御門
天守とともに復元され、桝形を構成し、一ノ門を抜けると、進行方向が鍵形に曲がっている。

■大手一ノ御門  木造一重。後方はニノ御門。門廻りの土塀、石垣も復元された。 土塀は、石落し、鉄砲狭間、矢狭間付き仕上げ。
■大手ニノ御門  木造二重の櫓門。石落し、鉄砲狭間、矢狭間付き。 ニノ御門は、本丸の正門になる。
◆白石城縄張◆
白石城の図         
 白石城は標高76mの最長部には本丸・ニノ丸・中ノ丸・西曲輪、中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き、丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で丘陵を切断、館堀川を隔てた平地には三ノ丸・外曲輪を配置した平山城。本丸は高さ9m余の石垣で囲み、ニノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張であった。城図は文政6年(1823)に再建された以降の白石城図(入場券より転載)
白石城本丸模型
 白石城本丸の模型は「白石城本丸屋形図」(仙台市立博物館所蔵)を基に復元された。本丸の外周は石垣が積み上げられ、土塀が廻っていた。その中に3棟の櫓、ひとつの桝形門、1棟の櫓門および本丸御殿の諸建築があった。櫓は天守に相当する西北隅の戌亥の三階櫓、東南隅の辰巳櫓(二階)、南西隅の未申櫓(二階)の3棟。本丸御殿は、大手門に近いところから外縁に沿ってコの字形に玄関、大広間等の表御殿、藩公の御成御殿が続き、奥向き御殿は居間、奥方御殿、祖母様御殿等があり、コの字形の御殿棟の中央部に、奥方御座所、中奥、台所等が位置する特異な平面配置になっている。特筆すべきは武をもって藩公に仕える片倉家らしく弓、槍、剣等の「御稽古場」があり、また、本丸内の奥に「御弓場」、「御弓場御座所」をもち、当主自ら日頃鍛錬に励んでいた。

▲復元された白石城天守(三階櫓)と大手二階門(ニノ御門)
天守入口は、天守1階に玄関が設けられており、天守左側にある覆屋(おおいや)の付いた登り階段を上がって行く形式。

(左上)JR白石駅前に建つ鐘楼
(右上)白石城から見る白石市街
(左)白石城周辺図
JR東北本線白石駅から、白石城まで徒歩約10分。

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土壁の構造見本
土塗りをくり返して漆喰で固め、日本古来の施行方法の防火構造とした。

※慶長20年(1615)、大坂の陣において豊臣家が滅亡すると、江戸幕府は元和の「一国一城令」を発布し、一国に一つの城のみ残し、支城はことごとく破壊させた。一部の大藩は例外として居城以外の城の保有を許されていた。白石城はそのうちの一つで、仙台藩では仙台城を除き、明治維新までつづいた唯一の城である。また、仙台藩は「一国一城令」後も、領土が広いこともあって要害(幕府から正規の城として認められなかった城や館と呼ばれる支城)の名目で多数の小城郭を保有していた。

宮城県指定文化財
  片倉家中旧小関家 武家屋敷
旧小関家の建つ後小路は、白石城北、三の丸外堀に当たる沢端川に面した町並で、中級武士の屋敷があったところ。

白石城天守(三階櫓)
 江戸時代の天守に多くみられる破風の少ない層塔型天守。3階には高欄をめぐらし火灯窓を付けるなど古い形式も採り入れている。天守台の石垣は野面積みで組まれた。
 復元に際しては、文政2年(1819)の焼失後、文政6年(1823)に再建された最晩年の構造による天守を復元。当時、片倉家では主君伊達家の仙台城に天守がなかったことをはばかって、天守とはよばず大櫓(おおやぐら)と称していた。

井戸屋形(復元)

天守3階内部

天守(三階櫓)

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