このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

■重要文化財■
<旧閑谷学校 5棟>
<旧閑谷学校聖廟 11棟>
<閑谷神社(旧閑谷学校芳烈祠) 8棟>
<旧閑谷学校石塀(附 飲室門)>

  
備前焼瓦で覆われた建築物、それらを取り囲んで長く続く石塀、閑谷(しずたに)学校の構造物のほとんどは国宝や重要文化財に指定されている。閑谷学校を創設したのは、岡山藩主池田光政である。
光政は寛文9年武士の子弟が学ぶ岡山藩学校を岡山市内に設けたが、ついで領民のための「閑谷学校」を設立した。二つ目の藩直営の学校・閑谷学校は、初めから庶民の学校・地方のリーダーを育てる学校として、寛文10年(1670)に創建された。天下の三賢侯の一人とよばれる藩主池田光政が、「この地は読書・学問するによし」として、重臣津田永忠にその建設を命じた。
現在、私達が目にする、講堂をはじめとするこの堅固で壮麗な建築物が完成されたのは、光政の死後、元禄14年(1701)、2代目藩主綱政(光政の長男)のころである。①現存する、②庶民を対象とした、③学校建築物、としては世界最古のものと言われている。(案内図は現地説明板より追記引用、文は現地リーフレットを参照)
 
(現地説明板より)
 
(現地説明板より)
 旧閑谷学校 5棟
講堂((つけたり) 壁書(へきしょ)・丸瓦)、小斎、習芸斎及び飲室、文庫、公門(附 左右練塀)
 
泮池(はんち)に架かる石橋から望む旧閑谷学校5棟
 文庫の後方(西側)にある人工で築かれた火除山(ひよけやま)の東側に、現在、国宝や重要文化財になっている建築物はすべて位置している。火除山の西(今は資料館が建つ場所)には学舎や学寮があり、平生の勉学や生活はこちらで行われていた。もし火が出るようなことがあっても絶対に東には移らせない防火壁の役割を持って火除山が造られた。

 
国宝 講堂
 元禄14年(1701)の完成で内部は10本の円柱に囲まれた内室と、その周囲の入側からなり外回りを広縁でとりまいている。材料の吟味と施工が入念になされており、今日に至るまで一分の狂いもみられない。桁行7間、梁間6間、一重の入母屋造りの建物で、屋根は備前焼の本瓦葺、大屋根の上に小屋根が覆いかぶさった錣(しころ)葺が特徴である。講堂では一と六のつく日に教授による四書五経などの講釈、釈菜の講経、正月の読初めの儀、藩主臨学のときの講釈が行われた。


講堂内部
 正面の壁には、藩主池田綱政自筆の3ヵ条からなる「(さだめ)(国宝)」の壁書(写真左)と「朱文公学規(しゅぶんこうがくき)」(黒い横長)が架けられている。


講堂内部
 東側3文字の額は「克明徳」と書かれている。

小斎

現地説明板を転載(以下、同じ)

飲室

習芸斎

公門

文庫(後方は火除山)
 旧閑谷学校石塀(附 飲室門)
 
石塀と飲室門(左奥は国登録有形文化財の閑谷学校資料館)
 閑谷神社(旧閑谷学校芳烈祠) 8棟
本殿(芳烈祠)、幣殿(階)、拝殿(中庭)、中門(外門)、神庫(庫)、石階、練塀、繋牲石
 
閑谷神社(西側には聖廟が建つ)
 閑谷学校の創設者である岡山藩主池田光政を祀るために貞享3年(1686)に建てられたもので、もとは光政の諡(おくりな)にちなんで芳烈祠(ほうれっし)または西の聖廟に対して東御堂といわれた。明治8年(1875)に神社格付けされ閑谷神社と改称した。本殿内に宝永元年(1704)に鋳造された光政の金銅製座像が安置されている。

 
玉垣に囲まれている本殿、幣殿、拝殿。拝殿の後ろ(南)は中門 
 閑谷神社は。聖廟と並びながらも、一段と低く位置し、建物もやや小さく簡素に造られている。繋牲石(けいせいせき)は、一個の花崗岩で基壇から造り出されている。祭りの際、羊等の犠牲をつないでおく石柱である。

 旧閑谷学校聖廟 11棟
大成殿(附 聖龕(せいがん))、東階(とうかい)西階(せいかい)、中庭、外門、練塀、文庫、厨屋、繋牲石、石階、校門(附 左右練塀・石橋)
 
聖廟(せいびょう)
 儒学の始祖孔子を祀っており、孔子廟または西御堂ともいう。本殿にあたる大成殿は貞享元年(1684)の完成で、内部の厨子(聖龕)には元禄14年(1701)鋳造の孔子像が安置されている。


校門(右)と講堂(左)

泮池に架かる石橋

中庭(ちゅうてい)、東階・西階、大成殿と前後に並ぶ
 大成殿は、方3間、単層、入母屋造りの本瓦葺で、亀腹状の礎石の上に建てられている。

東階・西階の内部

手前が厨屋(くりや)その後ろが文庫


所在地】備前市閑谷
【交通】JR山陽本線吉永駅から車で約5分


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