このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

特別史跡 旧閑谷学校
附 椿山、石門、津田永忠宅跡及び黄葉停
所在地:備前市閑谷

 旧閑谷学校は、備前藩主池田光政が、庶民の教育を目的として寛文10年(1670)に設立した郷学である。池田光政は、藩政の目標を儒学の教える仁政の実現におき、寛永18年(1641)には、岡山花畠に儒者をつぎつぎと招き、家臣の教育のため全国にさきがけて、寛文9年には岡山藩校を城下西中山下に開設した。さらに庶民の子弟に及ぼすため、寛文8年、領内123ヵ所に手習所を設置したが、延宝3年(1675)にはその全てを廃止してこの地に統合した。寛文6年(1666)、光政は領内を巡視してこの地にいたり、「山水閑静にして読書講学」にふさわしい場所であるとし、寛文10年仮学校を開設し、この地の旧名「木谷村延原」を「閑谷」と改め、家臣津田永忠に命じて後世にまで残る学校の建築をはじめさせた。現在目にすることのできる閑谷学校の姿が完成したのは、光政没後の元禄14年(1701)、2代目藩主綱政の治世のことで、江戸時代の学校の規模をもっとも完全に残しているものとして特別史跡に指定されている。建造物は講堂が国宝に指定されているほか、重要文化財に指定されているものが25件を数える。

 学校は四周を延長765メートルに及ぶ石塀で囲み、南側に校門(鶴鳴門)・公門・飲室門・校厨門の4門が開き、なかに聖廟・閑谷神社(芳烈祠)・講堂・小斎・習芸斎・飲室・文庫などが配置されている。備前焼の赤瓦がまわりの緑にはえて美しく、石塀とともに閑谷学校に特有の景観を与えている。かつては火除山をへだてて西側に学房(寄宿舎)がおかれていたが、現在は明治38年(1905)建築の旧私立・公立中学校の校舎であった資料館があり、国の登録有形文化財として関係資料の展示を行っている。石塀の南には東西にのびるはん池(ち)があり、重要文化財指定の石橋がかかっている。さらに1.2キロメートル南方には当時の校門であった石門が4分の3ほど土に埋もれて現存している。ところで、綱政は、元禄13年、閑谷の田畑山林高279石の地を永代学田学林とし、万一国替などの際にも学校経営にいささかも影響をうけないようにとの保証を与えたのだった。しかし、明治の廃藩置県・学制の改革等による大変革によって、閑谷学校も他の全ての藩校同様、廃校となった。同時にまた、閑谷学校の歴史を閉じてはならないとする旧藩士や民間有志によって、明治6年、山田方谷を迎えて閑谷精舎として再発足し、さらに明治17年(1884)、西薇山らによって閑谷學として復活を見てからは、明治37年私立閑谷中学校と改称、大正10年には岡山県閑谷中学校となり、多くの俊秀を世に送りだしてきた。戦後、岡山県立閑谷高等学校につづいて、和気高等学校閑谷校舎となり、昭和39年までその中等教育の場として学校の歴史をつないできた。現在は和気本荘の地に県立和気閑谷高等学校がその伝統を受け継いでおり、孔子の徳を称えまつる釈菜(せきさい)も、その教職員によって執行されている。(現地説明板より)
 【旧閑谷学校】
 
▲赤い備前焼瓦で覆われた建築物、それらを取り囲んで長く続く石塀、閑谷学校の構造物のほとんどは国宝重要文化財に指定されている。講堂(国宝)は閑谷学校の中心的建物で、一重の入母屋造り、屋根は備前焼の本瓦葺、大屋根の上に小屋根が覆いかぶさった錣(しころ)葺が特徴である。講堂の西には習芸斎飲室が棟つづきに建てられた。習芸斎(しゅげいさい)は学習の場所、飲室(いんしつ)は師匠や小子の休憩・閑談の場であった。さらにその西には土蔵造りの文庫が設けられた。

 
▲講堂の南西には簡素な柿葺(こけらぶき)の小斎が設けられた。小斎(しょうさい)は学校参観に訪れた藩主の休息の間であった。学房を含む学校の建造物群の周囲に、蒲鉾型の高い石塀がめぐらされ、聖廟正面に重厚な校門、その西に公門・飲室門が配置された。校門は学校の正門で鶴鳴門(かくめいもん)ともよばれている。公門は藩主臨学の際に使用した門で御成門ともいう。飲室門(いんしつもん)は日通いの生徒などが出入りする通用門であった。

 
▲講堂の東側には旧閑谷学校聖廟とそのすぐ東隣には閑谷神社(旧閑谷学校芳烈祠)がある。聖廟内にある大成殿には聖龕(せいがん)とよばれる厨子に孔子像が収められている。閑谷神社は学校の創始者池田光政を祀る。

 
石塀は鶴鳴門の左右から出発して、学校の敷地を一周し765mに達する。巾・高さともに約2mの蒲鉾型の石組みで、不整形な石を隙間なく巧妙に組合せて築く「切り込みはぎ式」とよばれる精巧なもの。元禄14年の築造で、備前焼瓦と並んで、閑谷学校に独特の景観を演出している。

 【附 椿山・石門・津田永忠宅跡および黄葉亭】
 石 門
旧閑谷学校から県道261号線を南(国道2号線方面)へ1Km行った県道沿いの左手
 
<現地説明板に一部加筆の上掲載>

 
頭部を擬宝珠型にきざんだ二本の石柱。記録では高さ一丈三尺五寸(約4.05m)とあるが、今は大半が埋没している

 津田永忠宅跡
岡山県教育センターの南側を流れる閑谷川の上流へ450mほど行くと津田永忠宅跡、さらに上流へ50m行くと黄葉亭となる

池田光政の命を受けて閑谷学校を創建した津田永忠(つだながただ)の屋敷跡
 光政没後も綱政に郡代として登用され閑谷学校を現存する姿に完成させるとともに各地で多くの土木事業を成功させた。晩年は現在の和気町奴久谷に隠棲した。

黄葉亭(こうようてい)
 
閑谷学校の東約500mの閑谷川の上流の谷川に臨む静閑な谷間に設けられた茶室
 文化10年(1813)、武元君立・有吉行蔵、両教授によって建てられた休息所で、来訪した頼山陽や菅茶山もここで茶を楽しみ酒を汲み交わしている。頼山陽に「黄葉亭記」がある。

椿 山
閑谷神社の東に接し、域内には光政が愛したツバキが植えられているところから椿山という

椿山入口

 
御納所の左側(西)は閑谷神社。写真左中央は校地を取り巻いている石塀

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