このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

<園部城の歴史>

 元和5年(1619)、但馬(たじま)(兵庫県)出石(いずし)から、小出吉親(こいでよしちか)(初代園部藩主)が園部に移され築造された。園部盆地の小麦山東側台地上にあり、小麦山を取り囲む外堀や、内堀・中堀も設けられ、陣屋とはいえ、城の様相を呈していた。明治維新期に櫓や櫓門築造など大幅に改修をおこない、現在では園部城として広く知られる。江戸時代を通して小出10代の居城として存続した。

 現在、園部城本丸は府立園部高校の敷地であり、本丸表門である櫓門が高校正門として残り、2層の巽櫓などが現存。櫓門前方の坂道は、かっては土橋で、櫓門に向かって左側(南側)に残存する土塀は貴重な遺構。当時は右側にも土塀があって、この土橋(廊下橋)を往来して本丸に出入りする者を外部から見えなくしていた。
園部城本丸  右より、本丸表門の櫓門、櫓門に接して番所、巽櫓と続く。櫓門前の坂道は本丸廊下橋(当時は土橋)。そして、櫓門、番所、巽櫓を囲む形で本丸土塀が残る。後方は園部高校の建物。  これらの建物は、戊辰戦争で京都御所の明治天皇の身をおびやかす事件が起こった時のことを考えて、明治元年(一八六八)、明治新政府が天皇の行在所として、園部藩第十代藩主小出英尚(ふさなお)に築城許可を与え築いた建造物である。
「本丸廊下橋」登城口右側の城址碑と説明板  背後の小麦山には三層の天守に相当する御三階櫓があり、本丸には太鼓櫓・巣鴨櫓・乾櫓も建っていた。しかし、明治五年(一八七二)、現在残る建物以外は取り壊された。  

【交通ガイド】
JR山陰本線「園部」駅からバス、又は徒歩。
徒歩約20分。

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