このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

疎水百選
岡山県では「東西用水」「西川用水」の2地区が疎水百選に選定(平成18年3月)

東西用水の南配水樋門と用水路(倉敷市)


岡山市街地の中心を流れる西川用水(岡山市)

東西用水(高梁川・笠井堰掛)
 ■倉敷の町は、江戸時代から明治時代の終わりまで約300年間にわたって干拓され、その土地を守るための築堤により川ができ、高梁川が運ぶ多量の土砂により広大な土地が形成されていった。
 
 ■しかしながら、川の堤防は簡単なものだったので洪水のたびに大きな被害を受けていた。そこで明治44年(1911年)に高梁川改修工事が国の事業として行われることになり、それに伴い大正5年(1916年)に高梁川東西用水組合が19町村で設立され、14年の歳月を経て大正14年(1925年)に完成した。

 当時干拓地の用水は高梁川の両岸にあった11箇所の樋門から取水していたが、取水は思うに任せず干ばつ時には水争いが絶えずこれを解消するため、河川改修を機にこれらの樋門を統合し、農業用水を経済的、公平に配分することを目的として、酒津地点に取水樋門と配水池をつくることになった。

 この大事業の完成によって洪水被害や水争いもなくなり、倉敷市発展の基盤が完成し、現在でも1市1町に安定した農業用水を供給しているものである。
(現地説明板より転載)

 ■東西用水は、高梁川の笠井堰(かさいぜき)から水を取り入れ、一旦酒津(さかづ)配水池に貯められ、南北配水樋門から西岸用水、西部用水、南部用水、備前樋用水、倉敷用水、八ヶ郷用水により、倉敷市などの農地へ供給されている。


高梁川東西用水の南配水樋門(土木学会選奨土木遺産)
 15連の配水樋門が並ぶ南配水樋門は、日本最大の農業用樋門と評価される。配水池(南配水樋門後方)から用水路が東方、及び南方に伸びている区域。


高梁川に築かれた笠井堰


酒津取水樋門(高梁川側)
 
高梁川の笠井堰から取水した水は、県道の下を抜けて配水池へと流れる。

取水樋門(配水池側)

笠井堰からの水を配水池へと取水する樋門。


取水樋門(配水池側)とその上方の県道

配水池側から見た南配水樋門


南配水樋門と用水路

南配水樋門上の通路
右側が配水池、左側が用水路。

南配水樋門から見た用水路

配水池
左側が南配水樋門、右側が取水樋門。


高梁川東西用水組合
木造2階建ての擬洋風で、1926年の建築。

西川用水
■西川用水は、旭川の合同堰から水を取り入れ、岡山市街の中心部を流れ、下流の農業地域に農業用水を供給する全長16Kmに及ぶ農業用水の水路です。

■市街地の中心を流れる西川の水と水辺は、多くの関係者の努力により、美しい景観を生み出し、水に親しみ四季を通じて花や生き物にふれあうことができ、人々に「うるおい」と「やすらぎ」をもたらす貴重な空間として親しまれています。
(岡山県の疎水百選より)

西側の最上流部
旭川から取水する樋門。ここから三野浄水場のわきを流れて岡山市中心部へと向かう。


三野浄水場わきを流れる西川
西川用水周辺図
[アクセス]市街地中心部を流れる西川用水へは、JR岡山駅より、桃太郎大通りを東へ徒歩5分。

 西川用水は、旭川の上流西岸にある三野公園の南東部より取水し、市街地を貫流して児島湾に流入する。平安時代には鹿田荘の田畑を灌漑していたと推定され、江戸時代には城下町の防御をなす水堀の役目をはたし、近代以降も水車の動力・飲料水として使用されていた。

 ※疎水百選とは、農林水産省が日本の農業を支えてきた代表的な用水を選定して、農林水産省と「疎水百選」実施事務局が合同で2006年(平成18年)2月3日に決定したものである。


 また、西川緑道公園は、新・日本街路樹100景の一つにも選定さrている。

国道53号より北側の西川用水

西川用水とパーゴラ(藤棚)
国道53号と桃太郎大通りの間の西側用水風景。直進すると桃太郎大通りにでる。


西川用水と「モクレン」
花は4月頃に枝先に上向きに咲く。


西川用水沿いの「桜」


西川用水に設けられた噴水
噴水の後方は、路面電車が走る桃太郎大通り「西川橋」で、右へ500m行くとJR岡山駅となる。バスの後ろの三角屋根は、西川橋交番。


西川橋交番
西川用水は、ここから、更に、南へと流れる。

西川用水の水上テラス


西川用水と巨石のモニュメント



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