このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

   淡路国の統治拠点・戦国時代は淡路水軍の本拠
      
洲本城
洲本(すもと)城データ

大天守台と模擬天守
 <西の丸に行く途中のビュースポットから撮影>
所在地兵庫県洲本市小路谷(三熊山))
築城年
築城者
戦国時代前期(16世紀前半)紀伊の水軍勢力の安宅(あたぎ)氏によって築城と伝わる
地形標高133mの三熊山(みくまやま)の山上と、その山麓に築かれた平山城
縄張山頂に築かれた上の城は、東西800m南北600mに及び、本丸・東の丸・西の丸・南の丸と広大な縄張をもち、これを築いたのは天正13年(1585)から24年間にわたって在城した秀吉傘下の脇坂安治
史跡区分国指定史跡(上の城・平成11年1月指定)  洲本市指定史跡(下の城)
遺構<上の城>曲輪跡、石垣、虎口、天守台、登り石垣  <下の城>水堀、石垣、御殿の一部(金天閣)
現況三熊山公園として整備。昭和3年((1928)山上の三熊山山頂広場となっている大天守台跡に模擬天守築造
特色麓の御殿(下の城)から山上の城(上の城)へ結ぶ階段状に築かれた竪石垣(登り石垣)
【洲本城案内図】
現地案内板に囲み数字等を追記。は登城ルートで、途中、西登り石垣が見られ、本丸搦手口に到達。
城内は散策自由、入城は無料。史跡などの見所には、案内標柱が立ち、縄張が良く確認できます。 
【訪城日】2018年9月再訪問

【登城ルート】徒歩にて訪城。車は洲本城案内図③馬屋に駐車可。
先ずは、洲本バスセンターから下の城を訪城(徒歩約10分)。洲本バスセンター内の観光案内所では洲本城に関するパンフレットをもらえます。

(下の城~現在は淡路文化史料館・足湯温泉・税務署等が建ち、石垣と水堀が残る)

次は、上の城を目指します(天守閣まで約2~30分)
登城口は、足湯、税務署等が建つ横(西側)に登城口があり、案内標識も設置されており、ここから、山頂まで約850mです。道は、整備された遊歩道が続き、歩きやすい登城道です。

そして数分登ると、T字路に突き当たります。下の写真左側の場所です。

(左)突き当り(T字路)を右に進む。左に下るとホテル側の登城口となります。この辺りには、標識が無いので要注意です。 (中)この場所は、右斜めに登る道と、左上に折れ曲がる道の分岐点で、右斜めに登って進むと「西登り石垣」遺構が残る。 (右)鳥居のある道は、洲本城案内図➆八王子 木戸に至る。
【下の城】 

「下(した)の城」跡から、三熊山山頂の「上(うえ)の城」跡に建つ模擬天守を望む

「下の城」に残る櫓台と水堀
 江戸時代初期、山麓に「下の城」が造られ、洲本御殿、洲本御屋敷などと呼ばれた。陣屋同様の構えで、藩主のための御殿と、城代稲田氏用の殿舎群があった。現在は、淡路文化史料館、裁判所、税務署などが建つ。


金天閣(きんてんかく。兵庫県指定文化財建造物)
 下の城御殿の貴重な遺構で、蜂須賀氏時代の御殿の一部。唐破風の式台をもつ寄棟造り、妻入りの建物。「下の城」近くの洲本八幡神社本殿かたわらの現在地に移築されている。

 江戸期には山上の城郭は実質的に機能を停止し、居館(下の城)のみが機能していた。
  【上の城】
<西の登り石垣> 

西登り石垣
 下の城から山上の城へ結ぶ階段状に築かれた二十数段の登り石垣は、洲本城の見所の一つ。右側の西登り石垣の標柱から、遊歩道奥へ少し進んだ左上に見えてきます。


登り石垣周辺は、急峻な山腹で石垣の崩れもあり、足場も悪く近づくことは困難です。分かりにくいですが、遊歩道から木々の間を通して垣間見ることしかできません。


登り石垣の隅部
 洲本城の登り石垣は、短い間隔で山上の城と山麓の居館とを結び、城の防衛となる。
 ここから山頂を目指し登って行くと、搦手口に到達します。


搦手口
 洲本城の裏門にあたる要所。三熊山の北斜面を要害としている。石段を上がった先には、天守台がそびえ、本丸となる。左方向の約200m先には西の丸が位置する。
<西の丸>

西門跡
 西の丸に通じる門跡。西の丸は、本丸から離れた独立の出城。西の丸では瓦が見つかっていないので建物はなかったとされている。

残念石
 石材を取るために、石に矢穴を掘り、クサビを入れて打ち込んで割ります。矢穴を掘ったままで石材とならずに放置された石は残念石と呼ばれる。この場所のそばに、天守を望むビュースポットがあります。

  <南の丸>

南の丸を囲む南東面の石垣
 南の丸は、本丸の南側にあって、現在の搦手口や本丸虎口を守備している。城の南側を見通し本丸を守る曲輪。
 

南の丸 隅櫓跡
 南東の隅角部に、先に築いた石垣に、本丸の防備を強固にするため、増築したあとが、二重の稜線となって見られる。

 
  <大手門~東の丸>

大手門跡
 紀淡海峡に向かっている洲本城表門の大手口(門)。関ケ原の合戦以降に作られたと考えられている。


腰曲輪(二段積みの石垣)
 低い石垣が二段に築かれており、高く見せようとしたことが伺える。


東一の門
 武者溜(むしゃだまり)の東端部にあり、この門を入ると城内になる。山麓の居城と結ばれる門である。


東二の門
 本丸と水の手を守る重要な石垣と門である。この門を入ると本丸大石段まで直進になる。

東の丸東面の石垣
 海に向かって構えた、高く長く続く石垣。築石は野面石で横目地の通らない乱積みで、間詰石が多く使われている。写真には写っていませんが、左端の角は、右写真(鎬角)となります。


鎬角(しのぎずみ)
 石垣の角は普通90度であるが、鎬角は鈍角に築かれる。山城では地形に合わせて郭を造るので、鎬角となる。

 <本丸>

本丸台南面の石垣
 脇坂安治初期の石垣は低く、乱積であったが、本丸台は高く広く見栄えもよくなっている。石垣の上部はさらに積み足され、反りも加えられているなど増改築がよく分かる。関ケ原の戦いの後の増改築であると考えられる。


本丸大石段
 広い石段は洲本城の威風を示す。この石段を上がると南の本丸虎口であり、本丸へ通じる。


本丸南の虎口
 本丸南の虎口は、本丸へ直進をはばんだ屈曲した枡形を構成。虎口を入ったすぐ左側には、武者走台が築かれている。


武者走台

本丸
 本丸北側には、大天守台と、小天守台(模擬天守の右方向)が、本丸の南側と西側は、低い馬踏み石垣(左側石段のある石垣)が築かれ、その間の石垣が接続して本丸が形成される。西北と南に虎口が設けられ、本丸を守る。写真中央の虎口は、西北の本丸搦手虎口となる。


大天守台南西の角石
 角は、大きな石材を交互に組み、算木積みの完成に近い。洲本城では、本丸台・天守台に、慶長時代の穴太(あのう)積みが見られ、割石を横位置に積み、いくつかの石で横目地が通るよう組まれている。穴太積みは、近江国穴太の石工たちの石垣の積み方。


小天守台の鬼門除け
 小天守台の北東隅(右側)は、悪鬼の出入りする鬼門となる。鬼門除けとして石垣に屈曲を設けている。

本丸北の虎口
 搦手からの侵入を防ぐ。南の虎口と同様に、堅固な門の礎石が二個対応して見られる。左側の石垣は、大天守台。


本丸台の鎬角
 この鎬角は、石材を突き合わせているのが珍しい。右後方は搦手口。


洲本八景1「大浜を大観」
 洲本城は水軍の城として築かれたもので、山上からの眺望が良く、城下も一望できます。

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【歴史】大永6年(1526)ごろ水軍の安宅氏により築かれたのがはじまりという。その後、三好長慶(みよしながよし)の弟、安宅冬康が入り、冬康(ふゆやす)は水軍の将として活躍した。天正9年(1581)羽柴秀吉は、織田信長より淡路平定を命じられると、洲本城を攻略し、天正10年(1582)に秀吉の家臣仙石秀久(せんごくひでひさ)が城主となり、安宅氏は滅亡。仙石氏が讃岐高松に移ると、同じく豊臣秀吉麾下の脇坂安治(わきさかやすはる)が大和高取から入城。天正13年(1585)から24年間在城して、大規模な改修を行い、今日に伝えられる壮大な石垣を造営するなど、堅固な城塞へと変貌させた。脇坂氏が伊予大洲へ転封後は、藤堂氏が城代を置く。慶長15年(1610)池田輝政が淡路領主となり岩屋城を築き、その後、三男忠雄が由良城を築いて居城としたため洲本城は一時廃城となった。

 江戸時代の元和元年((1615)、大坂の陣の功により、淡路が阿波の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)に与えられ徳島藩領となる。城代に主席家老稲田氏が任じられた。寛永7年(1630)蜂須賀忠英の時、由良が地理的に不便なため、洲本への政庁移転を願い、幕府がこれを許可。寛永8年(1631)から4年かけて、城代の稲田示植(しげたね)は、三熊山の麓に居館(御殿。下の城)を新築し、城下町の移転・建設も進められた。その後、徳島藩の家老稲田氏が城代を世襲して、明治維新に至る。城館は明治に破却されたが、現在も山上には、戦国から江戸初期までに築かれた石垣などが残る。

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