このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


 多賀城は、奈良・平安時代に陸奥国の国府が置かれたところで、奈良時代には鎮守府も併せ置かれました。神亀元年(724)、大野東人(おおののあずまひと)によって創建され、11世紀の中頃に終焉を迎えるまで、約200年もの間、古代東北の政治・文化・軍事の中心地としての役割を果たしました。
 多賀城は天平9(737)に「多賀柵」として初めて『続日本紀』に登場する。ついで宝亀11(780)には「多賀城」と記され、その後は「多賀城」として史料にあらわれている。廃絶後の江戸時代には遺跡として記録が残り、早くから古城として知られていた(以下、文は現地説明板、パンフレットを参考)

※国府~律令制下における国の役所の所在地 ※鎮守府~奈良・平安時代、陸奥・出羽の蝦夷(えみし)鎮圧のために置かれた軍制官庁 
訪問日~平成25年(2013年)10月
【所在地】
 宮城県多賀城市
【史跡区分】
 大正11年国の史跡に指定。多賀城の発掘調査は、昭和35年に測量調査が行われ、昭和38年から開始され、それまで軍事基地としてのみ捉えられていた多賀城の性格が大きく見直されることとなりました。こうした成果をうけ、昭和41年には国指定特別史跡に指定された。
【主な遺構】
 政庁地区建物跡、門跡、築地(ついじ)塀跡、櫓跡、建物跡


 ▼政庁地区建物跡

手前の左右に広がる茶色部分は政庁南門跡。後方の基壇部分は正殿跡


多賀城第Ⅱ期の政庁模型(東北歴史博物館蔵)
 多賀城のほぼ中央に置かれた政庁は約100m四方を築地で囲み、中央に正殿、その両側に東・西脇殿等々が、手前には南門と脇の翼廊が配置され、全体を礎石式・瓦葺き建物としている。
 右写真は、政庁の復元図です。
 
政庁復元図

【立地・規模】
 多賀城は、仙台平野を一望できる松島丘陵の先端、多賀城市市川、浮島に所在する。江戸時代初め、多賀城碑の発見により遺跡が多賀城跡であることが判明して以来、多くの学者によって研究されその重要性が知られてきた。規模は、約900m四方で、周囲は土をつき固めながら積み上げて、上に屋根をかけた「築地」で囲まれていた。築地は厚さが3m、高さは4mを超すと想定さrている。地盤が軟弱な場所では、築地の代わりに丸材や角材を密に並べた「材木塀」が作られている。

 南・東・西の外郭辺で門が確認されている。ほぼ中央には、儀式などを行う政庁があり、第Ⅰ期から第Ⅳ期まで4時期の変遷があることがわかっている。さらに城内の城前・作貫・大畑・六月坂・金堀・五万崎の各地区には、実務を行う役所や工房、兵士の宿舎などが置かれていた。城内では、都から赴任してくる按察使(あぜち)・国司・鎮守府官人など20名前後の役人のほか、書生などの下級役人・工人・兵士がおり全体で1.200人を超えると試算されている。
【築城の変遷】
 8世紀前半から11世紀前半頃まで存続し、3回の建て替えが行われた。当時の城は城塞であると同時に政庁でもあった。
 第Ⅰ期(724~762)大野東人の創建
 第Ⅱ期(762~780)藤原朝獦(ふじわらのあさかり)の大改修。780年の「伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱」で焼失
 第Ⅲ期(780~869)火災後の復興。869年の陸奥国大地震(貞観地震)で被災
 第Ⅳ期(869~11世紀前半頃)大地震後の復興

【多賀城碑
 江戸時代に土中から発見されたと伝えられている。碑面には「多賀城の位置」・「大野東人による724年の創建」・「藤原朝獦による762年の改修」が刻まれており、藤原朝獦の多賀城改修の記念碑と考えられている。明治・大正期には碑文の内容・書体・彫り方などの点で疑問が唱えられ、偽作説が有力になった。しかし、近年の再検討で偽作説の根拠が失われ、平成10年に重要文化財に指定された
 
▲多賀城碑(国指定・重要文化財)~高さ248㎝、最大幅103㎝のこの石碑は西暦762年に建立され、覆屋の中に西を正面にして立っている。碑文は141文字で刻まれており、日本三古碑のひとつ。
 この碑は「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれており、発見当初から歌枕の「壺碑」と結びついて広く世に知られ、芭蕉をはじめ多くの文人が訪れた。
 
▲多賀城碑文
【碑文の内容】
■多賀城の位置~京(奈良の平城京)、蝦夷国(えみしのくに・東北地方北半)、常陸国(ひたちのくに・茨城県)、下野国(しもつけのくに・栃木県)、靺鞨国(まつかつのくに・中国大陸沿海州)からの距離で示されている。奈良時代の一里は約535m(現在 一里3.93km)
■多賀城の創建~神亀(じんき)元年(724)に大野東人によって多賀城が初めてつくられた。
■多賀城の修造~天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)に藤原恵美朝獦(ふじわらのえみあさかり)が多賀城を大改修した。
■碑の建立年月日~天平宝字6年(762)12月1日にこの碑が建立された。

 
▲多賀城碑覆屋~外郭南門跡北東に位置する。この中に多賀城碑が設置されている。

【多賀城碑用語解説】
■按察使(あぜち)~奈良時代のはじめに設けられた地方政治をとりしまる上級役人。
■鎮守将軍(ちんじゅしょうぐん)~各地の城柵と兵士を統轄する役人。
■参議~奈良時代に設けられた太政官に置かれ大納言・中納言に次ぐ重職。
■節度使(せつどし)~奈良時代に臨時に設けられた地方軍政官。兵士や兵舎の整備や充実に当たった。
■仁部省(じんぶしょう)~租税を扱う民部省を、恵美押勝(えみのおしかつ)が天平宝字2年(758)に官名を中国風に改めた。卿(きょう)はその長官である。
 多賀城跡

(現地説明板に一部追記)
  
外郭南門跡・外郭南辺築地

外郭南門跡
 多賀城政庁の正面約350mに位置する南門跡。左奥の建物は、多賀城碑覆屋。

南築地塀跡
 中央に走る土手状の高まりは南築地塀の跡。築地塀はつくるとき、仮に板で枠を設け、土をていねいにつき固めて高く築き、屋根を葺いた土塀のことで、現在は、遺構保存のため、もとの状態に埋め戻している。


多賀城の外郭南門
 外郭南辺ほぼ中央に位置する南門は八脚門です。発掘調査の結果、多賀城の外郭門は南門・東門・西門が存在したことが明らかになっていますが、中でも多賀城の正面となる南門はひときわ立派であったと考えられています。この門には政庁正面から約350mの直線道路が延びていた。

外郭南辺築地
 約1km四方ある多賀城の南を区画する築地塀の跡です。発掘調査の結果、この塀は高さ4.5m程度と推定されている。この一体は低湿地であったため、築地を築くとき、地盤沈下防止のための基礎盛土(幅約17m、厚約1.5m)をしたり、大きな排水木樋を敷設するなど、大規模な工事をしている。
 また発掘調査では、当時「大垣」と呼ばれていたことが分かる墨書土器も発見されている。現在は、発掘調査前の状態に埋め戻して保存している。下の写真は発掘状況の様子です。

 外郭南辺築地の発掘状況(現地説明板より)
 
 
政庁~外郭南門間道路跡・政庁跡


(現地説明板)


(政庁復原模型写真に一部追記)


政庁部入口

政庁~外郭南門間道路跡
 多賀城の中枢部である政庁から外郭南門へ南北にまっすぐ通じる道路で、多賀城の中で最も重要な道路である。発掘調査の結果、道路幅は、政庁第Ⅰ~Ⅱ期(8世紀)が12m、第Ⅲ~Ⅳ期(9~10世紀後半)が23mに拡幅されていることが分かっている。


政庁~外郭南門間道路跡
 政庁南側斜面は自然石を並べた階段が設けられていた。また道路には排水用の暗渠も設置されており、ここから多数の木簡が見つかっている。現在は政庁第Ⅰ~Ⅱ期の状態に復元整備している。石畳道を登ると政庁跡が眼前に広がる。


政庁南門跡(第Ⅱ期~8世紀後半)
 政庁の南正面に開く門跡である。この時期は礎石式の門で、その東西に翼廊が取りつく。現在は基壇部分のみ復元表示している。

東翼廊跡
 南門東側に接続した東翼廊跡(茶色部分)。東西には築地塀が取り付く。外郭と同じく政庁も築地塀(写真の土塁状の造作物)で区画されている。


石敷広場跡

政庁正殿跡(第Ⅱ期~8世紀後半)
 政庁は古代多賀城の中枢部分で、創建以降3回建て替えられていたことが発掘調査でわかっている。この時期の正殿は礎石式の四面(ひさし)付建物で、その南には石敷広場がある。現在は基壇部分のみ復元表示している。


正殿跡から見た後殿跡

 外郭東門跡周辺

六月坂地区の役所跡
 ここは、政庁から北へ約300mの位置にあり、行政的な仕事を行っていた場所と考えられる。

役所群の北門と塀
 平安時代には、ここに門があり、多賀城内で最も広い役所群の北側の出入口であった。この門の両側には、丸太材を立てならべた材木塀がつくられていた。 現在は、門の柱や壁の位置、建物の大きさ、塀の位置などを示しています。

 【平安時代の外郭東門推定復元図】
 
<南・北櫓は、防御だけではなく、門との位置関係からその前面を飾る効果があったようです(現地説明板より)

平安時代の外郭東門跡(西から見た写真)
 写真手前の説明板の所が東門の位置で、推定復元図の東門から現在地方向を見た写真。
 外郭東門は、第Ⅲ期のある時期(平安時代初め頃)にこの場所に移された。正面9.4m、奥行5.5mの瓦葺きの八脚門である。門に取り付く築地塀(両側の土の盛り上がった部分)は、幅2.7mで2度のつくりかえがある。築地塀が内側に折れ曲がる位置(写真奥側)には櫓が建てられていた。
 平安時代になると、ここ東門の近くでは、道路に小石や瓦が敷き詰められ、石敷道路であった。


平安時代の外郭東門跡(東から見た写真)
 手前両側の盛土部分には、南櫓(左手)と北櫓(右手)が、その間の奥後方には東門が建っていた。

平安時代の外郭東門跡の北櫓跡(中央の説明板のあるところ)
 平安時代には、多賀城を囲む築地塀や材木塀などに、櫓(背の高い建物)が計画的につくられました。東門の前面では、瓦葺き屋根の櫓が南北対称に建てられていた。


平安時代の外郭東門跡の東門が建っていた場所
 後方は北門跡。手前方向(東)に向かって北櫓・南櫓が位置する。


奈良時代の外郭東門跡
 外郭東門は国府多賀城と国府の津(塩釜港)を結ぶ最もにぎわった門であった。奈良時代にこの場所へ建てられ、大きく3時期の移り変わりがあった。平安時代になると、約80m西に移された。


北門跡から見た多賀城内(南側)

掘立柱式の建物跡
 政庁第Ⅱ期(8世紀中頃)に建てられた東西に廂(ひさし)が付く掘立柱式の建物である。規模は南北15間(約45m)以上、東西4間(約12m)と多賀城で最も大きい。

JR国府多賀城駅から徒歩約15分
国府多賀城駅(北側)に観光案内所、レンタサイクルあり



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