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史跡鳥取城跡附太閤ヶ平
秀吉本陣跡(太閤ヶ平(たいこうがなる)
秀吉本陣跡は、後に太閤となった秀吉にちなんで「太閤ヶ平」と呼ばれている

国指定史跡 「太閤ヶ平」 昭和32年12月18日指定
 天正9年(1581)の羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で展開されたものである。

 信長の派遣した部将羽柴秀吉は、姫路から但馬口を経て天正9年7月12日鳥取に到着し鳥取城背後の東北の山頂(太閤ヶ平)のこの位置に本陣を置き、左右両翼と前面の袋川沿いに各陣を布いて、2万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開した。太閤ヶ平(本陣山)は、西方前方に鳥取城を望み、左右に芳心寺に至る一帯の山々をひかえ、右方にははるかに円護寺・覚寺・浜坂・賀露に至る一帯を見下し、総本陣としては最も適した場所であった。これを迎え撃つ鳥取城は、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として守備しており、その兵力は芸州毛利氏よりの加番衆400と因幡国方衆1.000余であった。

 毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後3ヶ月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況となった。ついに10月25日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹した。時に35歳であった。死の前日、10月24日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。

 この太閤ヶ平には、当時の鳥取城攻防の歴史を物語るかのように、土塁と空堀を廻らした曲輪の跡が厳然として残されている。また、この一帯は鳥取自然休養林であり、摩尼寺に至る中国自然歩道も整備され、広く市民の憩いの場として親しまれている。(現地説明板より)

搦手虎口から見た太閤ヶ平内部

太閤ヶ平(秀吉本陣)および大防衛線(現地説明板に追記)
 全国統一を目指す織田信長は、中国地方に勢力を持つ毛利氏と対立を深めて行き、天正8・9年(1580・81)の2度、羽柴(後の豊臣)秀吉を総大将として鳥取に侵攻し、毛利方の拠点であった鳥取城(久松山頂)を攻めました。

 この地に築かれた秀吉本陣は、高低差4m以上の土塁(土の堤防)と空堀に囲まれ、内寸58m、櫓台も設置した、大型かつ強固な防御性を備えた構造をしています。また、周囲のあらゆる尾根に陣城を配置し、鳥取城に対する強大な包囲網を敷いています。本陣および陣城群は、一城を攻めるにはあまりに大規模であることから、毛利氏との本格的な戦闘に備えた陣城であるとともに、信長を迎え入れるための本陣でもあった可能性が指摘されています。
      
■標高263mの久松山の東側、標高251m本陣山山頂に築かれた本陣は、他の陣城と比べ圧倒的に大きなものでした。
■正面にあたる大手口は南側にあり、郭内は西隅が一段高い構造となっています。
■埋まっていますが、堀の深さや長さも今以上と推定されます。
■本陣の西側(鳥取城側)の前線部分には、各陣城間の谷地形を二重・三重の堀でつないだ大防衛線が築かれています。(現地説明板より)

大防衛線の二重竪堀
 鳥取城天守跡から太閤ヶ平に向かうルート上の(伝)羽柴秀長陣跡の下に残る竪堀です。案内板は無く、地元の方に教えてもらい分かりました。


竪堀(左写真の右側)


高低差のある搦手虎口南側の土塁と空堀。土塁左は馬場跡 

<太閤ヶ平を歩く>
鳥取城跡&太閤ヶ平ルートマップ 

<各コース所要時間>
兵糧攻め対陣コース(鳥取城天守跡~太閤ヶ平)・・・1時間(約2.3km)
太閤ヶ平コース(太閤ヶ平~鳥取東照宮鳥居前・市立歴史博物館)・・・1時間30分(約3.5km)
※下山時は、地元の方のお勧めで展望もよく歩きやすいとのことで太閤ヶ平コース(アスファルト道)を歩きました。
(ルートマップは現地案内板に追記)


一辺50mにもなる方形状を呈し、周囲の土塁の高さは最大で5mもある大型な造りである。
周囲には空堀を持ち、櫓台なども備えていた。(太閤ヶ平遺構図は現地説明板に追記)


太閤ヶ平遺構図から方向の眺め
 アスファルト道の右側は、太閤ヶ平を囲む土塁。鳥取城天守跡からのルートでは、最初に出会う太閤ヶ平は、この場所になります。このアスファルト道の突き当りが下写真の地点です。


太閤ヶ平遺構図からにかけての土塁
 土塁とアスファルト道の間には空堀が残る。突き当りが地点で、奥の建物は、無線中継所です。


太閤ヶ平遺構図地点の様子
 ここが太閤ヶ平への入口です。縄張図が記載されている説明板の左奥に、搦手虎口が築かれており、ここが内部への入口になります。


太閤ヶ平遺構図から見た櫓台
 下山時は、このアスファルト道に沿って右奥の方向へと麓に向かいました。他の道よりも少し距離は長いですが、歩きやすく、地元の方のハイキングコースとして利用され、途中には展望所、休憩棟もあります。

上写真の「土塁」上から見た右折れの土塁

太閤ヶ平遺構図から方向を見た写真で、搦手虎口の後方は、無線中継所が立つ馬場跡


上写真の空堀跡
 奥が太閤ヶ平遺構図の地点となり、地点を右に曲がったところの空堀が右写真。


土塁と空堀
 搦手虎口の空堀。右の平坦地は馬場跡。

搦手虎口(馬場側)


搦手虎口(内部側)

左折れの土塁
 土塁左は内部側、右は馬場跡。

馬場跡
 無線中継所が建つ。


窪地状突出部
 船の先端を思わせるような構造で、狭い入口に窪地があり、半地下室の施設があったと考えられている。


大手虎口側の曲輪跡
 左側の土盛り部分は土塁で、土塁下は空堀となり、その右側が曲輪跡。

大手虎口(内部側)
 虎口の右側は、櫓台(右写真)。

曲輪側から見た櫓台
 
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