このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


岩手・平泉 【高倉 義経堂】

 ここ高館は、義経最期の地として伝えられてきた。藤原秀衡(ひでひら)は、兄頼朝に追われ逃れてきた義経を平泉にかくまう。しかし秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡(やすひら)は、父の遺命に背いて義経を襲った。文治五年(一一八九年)閏四月三十日、一代の英雄義経はここに妻子を道連れに自刃した。
 時に義経三十一歳。

 吾妻鏡によると、義経は「衣川館(ころもがわのたち)」に滞在していたところを襲われた。今は「判官館(はんがんだて)」とも呼ばれるこの地は、「衣川館」だったのだろうか。

 ここには、天和三年(一六八三年)、仙台藩主第四代伊達綱村公が義経を偲んで建立した義経堂があり、中には、甲冑姿の義経公の木像が安置されている。

 頂上からの眺望は随一で、西に遠く奥州山脈、眼下に北上川をへだてて東に束稲(たばしね)の山なみが眺められる。

 また、元禄二年、俳聖松尾芭蕉が「おくのほそ道」で詠んだ「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」は、この場所といわれている。
(文は現地説明板を参考)

右の建物は、拝観券発行所。この階段を上がって、左に行くと義経堂・資料館、右に行くと芭蕉句碑がある


さらに石段を上がったところにある建物が義経堂

義経堂内に、本尊として祀られている堂創建時に製作された木造の源義経公像

義経堂のそばにある源義経主従供養塔。昭和61年、藤原秀衡公、源義経公、武蔵坊弁慶800年の御遠忌を期して、供養のため造立


義経堂から反対方向に向かった先には芭蕉句碑が立つ

芭蕉句碑
 夏草や 兵共が 夢の跡


資料館

義経堂上粱文(拓本)
資料館に展示。義経堂落慶のとき納めた棟札


(現地説明板より)

JR東北本線平泉駅より約1km、徒歩15分






 高館は北上川に面した丘陵で、判官館(はんがんだて・ほうがんだて)とも呼ばれている。地元で判官館と呼ばれているのは、義経が判官の位にあったことに由来する。この地は、源義経最期の地として有名である。

 現在、高館はその半ばを北上川に侵蝕され狭くなっているが、この一帯は奥州藤原氏初代清衡公の時代から、要害地とされていた。

<所在地>岩手県西磐井郡平泉町
<築城年>中世
<形式>丘城

(訪問日)平成25年(2013年)10月 
【『平泉館』の詰めの城と考えられる高館】

 
 柳之御所は、平安時代の末、(12世紀)に、平泉を拠点に繁栄した奥州藤原氏が政治を行った場所と考えられているところで、歴史書「吾妻鏡」に記されている「平泉館(ひらいずみのたち)」にあたると推定されている。

 高館は、柳之御所から北西約500mに位置し、平泉で唯一の独立丘陵を形成しており、丘陵式の築城がなされている。遺構として、土塁や空堀が残る。

空堀跡から義経堂(ぎけいどう)裏手を望む


ここは現在、駐車場として利用している所

空堀と土塁


空堀

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