このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

  たかこしやま
高越山城

【高越城と北条早雲】
 高越城は、鎌倉時代末、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて作らせたと伝えられています。戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原荘を治め、この高越城を居城にしていました。

 伊勢新九朗盛時(のちの北条早雲)は、この備中伊勢氏出身で、永享4年(1432)父伊勢盛定の子としてこの地に生まれました。新九朗は、青年時代までこの地で過ごし、西江原の法泉寺で学んだといわれています。その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上がり幕府に仕え、応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国(現在の静岡県)の守護今川家に身を寄せました。新九朗は、この今川家の家督争いを治め、56歳にして初めて駿河国の興国寺城の城主となりました。
 
その後、伊豆国(現在の伊豆半島)、相模国(現在の神奈川県)を治め、88歳で亡くなるまで、北条5代100年の関東支配の基礎をつくり、戦国大名の魁となりました。現在も高越城は、山陽道、小田川を眼下に、本丸を含めて5段の郭で構成されており、当時の状況をよくとどめています。
 (城内案内説明板より)

【所在地】
岡山県井原市神代町
【形 式】
戦国の山城(標高172m.)
【遺 構】
郭跡
【文化財指定区分】
井原市史跡
【現 況】
高越城址公園として整備

▼一の郭〜一段高い所から見た一の郭南寄り部分

▼一の郭〜北側が一段高く、「北条早雲生誕之地」碑と城址の碑が建つ

●上の周辺図、国道486号印の位置に、(左)写真の案内標識が掲げられており、荏原小学校方面に向って井原鉄道の踏切を超えると、城址まで案内標識がところどころに掲げられている。

●左写真の所にある車と徒歩の案内標識。

●この地点で車と徒歩の道が分かれます。手前が車で行く道で左方向へ、その向う側が徒歩の道でゴミ置き場の前を左折。中央の低くなっている山が高越城址。


頂上近くまで車で行くことができます。舗装された駐車場と城風のトイレがあり、右側は多目的広場になっています。中央は一の郭。登城口からアスファルト舗装された登城道を少し下った所に冠門が建つています。

●高越城址周辺図●

城址からの眺望

「城址」の碑

高越山城全景

北条早雲の出生地
※知謀に長け小田原城を奪い、関八州に覇を唱えて北条氏を興した北条早雲(1432〜1519)が、井原の荏原の庄(現東江原町)出身について、いろいろ説がありますが、現在では、ほぼ定説となっているようです。

四の郭より望む一の郭

冠門を過ぎて、四の郭へと続く道

「北条早雲生誕之地」碑

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(左)(右) 冠門

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