このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 高岡城
《曲輪を囲む広大な水濠が良好に残る城址 / 国史跡 / 日本100名城》
 
<訪問日=2015年4月再訪問>
■所在地
 富山県高岡市古城1−1(市街地のほぼ中心部に位置する)
交通〜あいの風とやま鉄道高岡駅から徒歩15分(高岡駅前より北東約1km)
文化財指定区分〜国史跡(2015年3月指定)
地形種類〜平城
■遺構〜本丸・二の丸・三の丸・鍛冶丸・明丸・土橋・堀・石垣
築城年代〜慶長14年(1609)
築城者〜前田利長(としなが)
 
▼歴 史
  高岡古城公園は、加賀藩2代藩主、前田利長によって築かれた高岡城の城址です。慶長14年(1609)、利長は大火に見舞われた富山城に代わり、加賀・能登・越中の中心に位置する関野(せきの)の地に居城と城下町を移し、高岡城と命名しました。縄張り(設計)を担当したのは、築城の名手と謳われた高山右近と伝えられています。

 慶長19年(1614)、利長が死去し、次いで大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した元和元年(1615)、幕府の一国一城令により高岡城は廃城されました。しかし、3代利常をはじめ歴代の藩主は、城址を高岡町奉行の管理下において、米蔵や塩蔵を設置し、土塁や堀を残す措置をとりました。

 明治3年(1870)、金沢藩は窮民救済と農地増殖を目的に高岡城址を民間に払い下げる布達を出し、明治5年(1872)の廃藩置県後、七尾県は水濠を除く31、066坪を民間に払い下げる決定をしました。これに対して、高岡の象徴である「古御城」を壊すことについて高岡町民は反対の意志を示し、当時の第17大区区長(現在の高岡市長に相当)ら高岡町民有志による公園指定請願運動が起こりました。明治6年(1873)の公園条例(太政官布告)、翌年の射水神社の遷座もこの運動を後押しするものとなり、明治8年(1875)7月に「高岡公園」として指定され、今日の高岡古城公園が誕生しました。

 ▼特 色
高岡古城公園
 本丸を中心に、南に二の丸、その東側に、南から北へ鍛冶丸(かじまる)明丸(あきまる)民部丸(みんぶまる)が一列に並んでいた。いずれの曲輪も広大な水堀で囲まれ、とくに本丸・二の丸を囲む水堀の堀幅は50mを超える規模となっていた。

 高岡城跡は、日本の築城技術が高度に発達した慶長期の縄張りを完全な形で残しており、近世初頭の城郭構造を知るうえで貴重な遺構として全国に知られています。城址全域に及ぶ公園面積は約21万㎡と広大で、しかもその1/3が堀で占められており、全国有数の水濠公園です。春は桜が一面に咲きほこり、夏は深緑が豊かに生い茂り、秋は紅葉が燃え盛り、冬は木々に雪が降り積もる。野趣あふれる公園内では、四季折々の彩り豊かな景色が訪れる人々を楽しませてくれます。


 ▼石 垣
  二の丸から本丸に渡る土橋の両側には、築城当時の打込接(うちこみはぎ)の乱積による石垣が残っています。石垣は、この土橋脇だけに残り、他は見られない。

 内堀側の石垣の石材を調べたところ、高岡から氷見の海岸で切り出される砂岩が4割、残りは県東部で切り出される花崗岩や安山岩が用いられています。石には岩を断ち割る際にクサビを打ち込んだ「矢穴」のほか、60種類余の文様・記号を刻み込んだ「刻印」を見ることができます。

<写真左上>土橋西側の石垣。
<写真右上>土橋東側の石垣。
<写真左>内堀と土橋東側の石垣。左が二の丸、右が本丸。建物は取り壊されたが、石垣や堀はそのまま残される。
 
 高岡古城公園


大手口〜土橋を渡って左側が二の丸、右側が鍛冶丸となる。鍛冶丸は城の正門(大手口)のある重要な曲輪。

南外濠〜大手口からの眺め。二の丸(右手)と赤い橋は駐春橋。


枡形濠〜鍛冶丸(左側)と明丸(右側)の間にある濠。高岡城の濠は、ほぼそのままの形で残る。

本丸橋から見た西外濠と本丸跡〜西外濠の水面から本丸台地までは、15mぐらいの高い崖になっている。本丸に限らず今では、各曲輪とも樹木に覆われている。


本丸跡〜本丸は、城主利長の居館や米蔵・塩蔵・本丸門・番所などがあったとされている。現在、敷地の北西側半分は本丸広場で、残りは神社の境内となる。


本丸井戸

三の丸から見た内濠〜赤い朝陽橋は、左側の本丸と右側の三の丸(民部丸)を結ぶ。

本丸北東の内濠

搦手口
(城内側)〜手前左方向が三の丸、右方向が明丸。

民部の井戸〜三の丸(民部丸)に残るこの井戸は、城中でも最も大きな井戸であったらしく、屋形を建て今まで保存されてきた。

  地域別訪問城に戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください