このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
▲高崎市指定史跡の三の丸外郭の土塁と堀
前方左に建つ乾櫓・東門方向を望む。
▲群馬県重要文化財の乾櫓(左)と、その右は高崎市重要文化財の東門
【高崎城の歴史】
■関東に入部した徳川家康の命で、1598年(慶長3)、家臣の箕輪城主・井伊直政が廃城になった和田城の跡地を取り込んで新城を築きこの地を高崎と命名した。それが高崎城である。
■直政は関ヶ原の合戦後、近江国佐和山城へ転封。城主として酒井・戸田・藤井(松平)氏などを経て、その後、1619年(元和5)に入封した安藤重信によって城は拡張され、重長・重博3代の在城中に完成した。1695年(元禄8)には大河内(松平)氏が入る。大河内氏は一時越後村上に移り、再び城主として戻ってからは、明治維新まで続いた。江戸時代に存在していた天守(三重櫓)などは、明治維新後に取り壊された。
■高崎城は、利根川の支流鳥川東岸の河岸段丘上に築かれた平城。現在、本丸、二の丸などは市役所などの公共機関で埋め尽くされているため、かっての縄張を偲ぶことはできないが、三の丸外郭の堀と水堀、乾櫓・東門に当時の面影が残る。
■JR高崎駅西口から西へ行った所にある高崎市役所の周辺は、かつての高崎城の跡地で、復元移築された乾櫓・東門、堀・土塁が当時の名残りをとどめている。
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▲高崎市役所前の「三の丸土塁・堀」
土塁は曲輪の周囲などに土を盛りあげ、敵の攻撃から城の内部を防御するもの。自然の地形を削って築いたり、堀を掘った際の土で築く。江戸時代までは土塁のことを土居といった。
今日、城の土塁があまり目につかないのは、明治維新以降、城の外郭がほとんど取り潰されてしまい、多くの城は土塁を失って、石垣だけが残っている。
東門の表側
{左上}大門の扉と、右はくぐり戸。
{右上}くぐり戸。大門の扉の中に設ける小門。
{左}出入りを監視する見張番所の出窓。
高崎城大手門脇に復元移築された「乾櫓」と「東門」、その前の模擬土塀には、高崎城址の説明が記されている
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