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高遠城(たかとおじょう)概略
  高遠城は、武田信玄が天文14年(1545)高遠頼継(たかとおよりつぐ)の高遠城を攻略し、その後大規模な改修を行った。南に三峰川(みぶがわ)、北に藤沢川が流れ、このふたつの川が合流する段丘上に築かれた平山城で、川からの比高は約70m。本丸を段丘の突端に置いて、北から東に二ノ丸、三ノ丸などをめぐらす縄張で、曲輪の間には深い空堀を設けている。高遠城は、武田氏の軍事拠点として重きをなしたが、武田勝頼の実弟仁科盛信(にしなもりのぶ)が城主のとき、天正10年(1582)に、織田信忠軍の猛攻によって落城した。
 
 江戸時代に入ると、保科氏、鳥居氏につづいて、元禄4年(1691)に内藤氏が入封し、8代で明治維新を迎えた。城跡は、本丸をはじめ、各曲輪はすべて空堀で区切られ、戦国時代の信玄流築城の面影を留めていたが、明治時代に一部が埋め立てられた。また明治時代以降に移植した1500本以上の桜におおわれ、県指定天然記念物「タカトオコヒガンザクラ樹林」として花見の名所となっている。
※写真は三峰川と河岸段丘(左)。断崖上の先には高遠城が縄張された。
 【交通ガイド】
 JR飯田線「伊那市駅」から、JRバス関東高遠線で約25分、「JR高遠駅」下車、大手門跡まで徒歩約20分。

 城地全体を桜がおおう名城として知られ、「日本さくら名所100選」に選ばれている。毎年4月には「高遠さくら祭り」が開催され、花見を楽しむ客で賑わう。
遺構〜本丸、二ノ丸、三ノ丸、南曲輪、勘助曲輪、法幢院(ほうどういん)曲輪などの各曲輪跡、空堀、土塁
訪問日〜2016年6月再訪問
高遠城
信玄が伊那の拠点として築いた天険の要害 国指定史跡

【所在地】長野県伊那市高遠町東高遠城跡

◆高遠城址
 
(案内図は現地案内板に追記し掲載)
 縄張は、本丸を囲むように二の丸、三の丸が外郭として配され、本丸南側には笹郭を、南東側には南郭と法幢院郭が、本丸に隣接して勘助郭が配されていた。こうした縄張は武田信玄当時のものをほぼ踏襲して明治に至ったものと考えられる。普請に石垣は用いられず、土造りの城郭であった。その後、江戸時代には大手門をはじめとした各城門部分は石垣に改修されている。


大手門跡を望む
 JRバス高遠駅から、国道361号線沿いに高遠城跡へ向かう途中から眺めた大手門跡。

 
高遠城址への登城口<殿坂口>
 ここから、S字に曲がり、傾斜を上がって行くと、大手門跡に至る。

 

大手門跡
 築城当初、表門である大手は城の東に、裏門である搦手は西に位置していた。ここが大手に変わったのは、幕藩体制の基盤が揺るぎないものとなってきた江戸時代の初期と言われていて、正保年間(1644〜1648)に描かれた絵図では、城の西(現在地)に大手門が確認できる。

藩政時代の石垣

 廃城後、この大手門周辺の改変は著しく、往時の様子を窺い知ることができないが、道路南東(右手奥)にある突き出した大きなこの石垣は、大手桝形の一部と思われ、当時の石垣構築物の姿を留める貴重なものである。


信州高遠城図(現地説明板より)
 南は三峰川の断崖で隔てられ、本丸(約70m四方)・二の丸・三の丸などがそれぞれ深い空堀で守られている。
 高遠城の築城者は武田信玄であるが、それまであった城を改修したのか、それとも新築であったかは不明である。
 勘助曲輪の広さは769坪(2,542㎡)で、曲輪内には櫓や祭事事務所、硝煙小屋、稲荷社等があった。 
勘助曲輪
 高遠城は戦国時代、武田信玄の命により山本勘助が縄張(設計等)をしたと伝えられている。勘助曲輪の名称は、設計者の山本勘助に由来するが、築城当初この曲輪はなく、大手口を東側から西側へ移した際、新たに造成されたのではないかと言われている。

 かつては、ここの駐車場の中央に堀があり、南側が勘助曲輪、北側が武家屋敷となっていた。曲輪周辺の堀は、戦後埋め立てられ、旧高遠高校グランドとして使われた後、現在は駐車場となっている。


勘助曲輪に隣接する本丸の土塁  

伝高遠城大手門
 勘助曲輪の道向かいに建つ。この門は、高遠高等学校がこの地にあった昭和59年(1984)まで正門として使用されていた。明治5年(1872)新政府から城郭の取り壊しを命じられ、城の建造物や樹木は、競売に付されすべて取り払われた。
 当時、城内には大手、二の丸、本丸、搦手の4つの櫓門があったが、いずれも競売されて民家や寺院の門として払い下げられていった。この門は、そのうちの大手門といわれているが、その形は切り詰められ当時の姿ではない。


藩校・進徳館〜表門
 伝高遠城大手門からさらに坂を上がると、三の丸跡に進徳館(国指定史跡)がある。進徳館は高遠藩主内藤頼直が前藩主頼寧の意志を受け継ぎ、藩士中村元起の熱望により大学頭林復斎の助言を得て万延元年(1860)3月郭内三の丸に内藤蔵人の屋敷を文武場にあてて創設した藩学校である。


藩校・進徳館〜東西2棟と玄関
 旧進徳館の主要建物は8棟造り、平屋茅葺きで現存するものは前通りの東西2棟と玄関及び表門で、その他は明治4年(1871)閉鎖後取り払われた。


二の丸門跡
 三の丸(土橋手前)から、北口の木橋(現在は土橋)を渡ったところから冠木門(棟門)、枡形、櫓門と続き、門を抜けると広庭(二の丸・武者溜り)となる。土橋を渡った左手の建物は、二の丸跡に建つ高遠閣。写真は前回訪問した時のものです。

二の丸門跡と空堀
 二の丸は、本丸の東から北に廻っている曲輪で、外周は堀によって防備を固めていた。


二の丸空堀
 空堀は傾斜度40度、幅15m、深さ17mという規模の大きな空堀。
二ノ丸跡
 二の丸には時代によって変遷はあるが、役所向きの多くの建物が建てられ、厩、土蔵なども置かれていた。
 写真中央奥には、本丸へ渡る桜雲橋が位置する。


二の丸土塁
 二の丸で往時の姿を留めるものに土塁がある。これは、東側曲輪端に高遠閣の裏手から南に向かって延びる土盛で、深い堀切とともに城郭の姿をよく留めている。

高遠閣<登録有形文化財>

 高遠閣は、高遠城址公園内に会館を建て、町民の集会や観光客の便に供することが町の発展のため有意義であるとの思いから、昭和11年12月6日に完成した。

 大正・昭和初期の稀有の建物として平成14年8月21日に国の登録有形文化財として登録され、史跡高遠城跡のシンボルとなっている。

 
 


本丸空堀に架かる桜雲橋と問屋門
 現在では、桜雲橋と問屋門は、高遠城跡には欠かすことができない景観シンボルとなっている。


桜雲橋と問屋門
 手前の二の丸から桜雲橋を渡り、問屋門をくぐれば本丸跡。この門は、高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門である。
 

空堀の底から見た本丸空堀

 

本丸御門跡(本丸側)
 桜雲橋を渡り問屋門をくぐれば本丸御門跡。本丸御門は枡形で、一の門が冠木門、二の門が櫓門であった。


問屋門(本丸御門跡)から本丸跡を望む


本丸の太鼓櫓
 大正2年(1913)に本丸南隅櫓の跡に建てられた。太鼓櫓は後世のもので、城とは無関係。

笹曲輪から見た太鼓櫓と本丸土塁

 高遠城は巧みに天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけて二の丸、さらに、その外側に三の丸を廻らした城郭三段の構えをもっていた。
 天正10年(1582)城主仁科五郎盛信が織田軍に敗れ壮烈な戦死を遂げた後、高遠城の城主は保科氏、鳥居氏と替わり、元禄4年(1691)からは内藤氏が廃藩まで8代、180年間にわたって城主であった。江戸時代、本丸には城主の権威の象徴たる天守閣はなく、平屋造の御殿や櫓、土蔵などがあった。
 本丸御殿は政庁であるとともに藩主住居も兼ねていたが、廃城時、城内の建物は取り壊されてしまった。


本丸の新城藤原神社

高遠城郭想定復元模型
 高遠町歴史博物館展示の江戸末期の模型

  高遠城の戦い(古戦場跡)
 天正10年(1582)2月、織田信長は、信玄亡き後の武田氏の混乱に乗じて、一気呵成の攻略に転じた。伊那口からの嫡男信忠率いる5万の兵の進攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。

 時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか3千の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。古来「要害は必ず兵禍を被る」と言われるが、この城も盛信以下将兵決死の奮戦にもかかわらず、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、3千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。高遠城の戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後を飾る戦いの場となったのである。

  


搦手門(からめてもん)
 築城当初、表門である大手は城の東、裏門の搦手は西にあった。城は江戸時代になり、幕藩体制の基盤が揺るぎないものになってくると、本来有していた軍事的要素が弱まり、権威の象徴としての城に変わっていった。また加えて、城下町の発達や、交通上からも、自然と西方の位置が便宜となったことから、江戸時代初期に城の裏表口を変えたといわれている。

 この堀に架かっていた長さ14間、幅2間の橋を渡ると、冠木門(棟門)、枡形に続いて、間口5間、奥行2間の櫓門があり、これと隣接して番所が設けられ、厳重な警護がなされていた。


搦手門跡周辺の空堀

竪堀
 三の丸の空堀は三峰川の崖面に対して竪堀となり、斜面防御を強固なものにしている。
 

白兎橋から見た法幢院曲輪
 二の丸から堀内道で通じていたこの曲輪は、城郭の南端に位置し、曲輪の東方には幅6m、長さ170mの馬場が続いていた。
 この曲輪に南口ゲートがあり、そこから、徒歩で下って5分もあれば高遠町歴史博物館へ至る。

 
 


高遠湖/高遠町歴史博物館
 南口ゲートから歴史博物館へ向かう途中から撮影。絵島の囲み屋敷は、歴史博物館の左側に隣接して建つ。
 

高遠町歴史博物館(絵島囲み屋敷)
 ■開館時間 午前9時〜午後5時
 ■休館日  月曜日と祝祭日の翌日/年末年始
 ■入館料  大人400円

絵島の囲み屋敷
 大奥の大年寄である絵島が事件を起こし高遠に永々遠流となった。絵島事件は、月光院の名代で前将軍家宣の霊屋へ参詣した帰途「山村座」で芝居見物し、刻限に遅れて帰城したことに端を発する。
 家宣の正室天英院と月光院の勢力争いなども拍車をかけ、絵島のほか大勢の人々が罪に問われる当時としては非常に大きな粛清の嵐であった。
 月光院の口添えにより減刑され遠流となった絵島は、最初ここより4キロ上流の非持(伊那市長谷)の囲み屋敷に入れられたが、享保4年(1719)この花畑の地籍に移された。そして寛保元年(1741)4月、61歳で病死するまでこの囲み屋敷で幽閉の生活を送ったのである。
 この囲み屋敷は残存する古図により昭和42年(1967)ほぼ同じ地点に復元されたものである。

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本丸の空堀をまたぐ桜雲橋(おううんきょう)問屋門(とんやもん)

問屋門と桜雲橋
 二の丸から本丸への入口に建つ問屋門は城門ではなく、城下から移築された門

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