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国史跡 高取城
<岐阜県美濃岩村城と岡山県備中松山城とともに日本三大山城の一つ>
【所在地】 奈良県高市郡高取町高取
【別 名】 芙蓉城(ふようじょう) 近世山城の典型としてよく知られ、「巽 高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城」とうたわれている
【築城年】 1332年(元弘2) 1585年(天正13) 
【築城者】 越智邦澄(おちくにずみ) 本多利朝(ほんだとしとも)
【地 形】 標高584mの高取山に築かれた近世山城。比高約390m
【遺 構】 石垣・堀・郭・井戸
【天 守】 天守台のみ現存
高取城探訪〜八幡口登り口(通称)から登城を開始。(写真左)壺阪口門へ至る坂道の登城道。(写真中)しばらく登って行くと城内入口の一つ壺阪口門が構える。(写真右)さらに進むと壺阪口中門があり、この門を過ぎると二の丸下段に構えられた大手門(または御成門)へと至る。
                          高取城縄張図(現地説明板に加筆し引用)
 城域は広く11の区画に分かれ、27もの櫓が建てられていた。二の門、壺阪口門、吉野口門より内側を城内とよび、その外側を含めた城域全体を郭内と称する。二の門から大手門に至るまでに松の門、宇陀門、千早門などの虎口が設けられ、すべてが地形を利用した右折れの喰違い虎口である。東南の最高所に帯曲輪を持つ不整四角形の本丸を置き、本丸は、天守曲輪を上段とする二段構造となっている。その西には、二の丸を配置しており藩主の居館である御殿があった。その北方には城代屋敷の曲輪を中心に壺阪口郭・井戸郭・吉野口郭などからなる三の丸を配している。
【高取城本丸天守台石垣】
<天守台石垣上には三重三階の大天守が築かれ、写真右端石垣上には小天守が構えられた。大天守とは多聞櫓で結ばれていた>

史跡 高取城跡
 高取城跡は、奈良盆地の南端、標高584mの高取山の山頂を中心に、急峻な山上の地形を巧みに利用して築かれている。何段にも重ねた石垣や喰違い虎口(出入口)、急斜面により守られ、山麓の城下町との比高差は400m以上を測る。14世紀前半に土豪越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まりといわれている。織田信長の一国破城により、天正8年(1580年)に一旦は廃城となるが、天正12年(1584年)の筒井順慶による復興をへて、豊臣秀吉の家臣本多氏により天正から慶長の頃(16世紀末〜17世紀初頭)に近世城郭として完成した。その後江戸時代に入り、寛永14年(1640年)に譜代の植村氏が入部して2万5千石の居城とした。以後明治維新まで、植村氏が14代に渡って城主となった。山上に本来の城と家臣の屋敷地を取り込んで、城と城下町の二様相を山城としてまとめた特徴ある形であった。そのため山城としては広大にならざるを得なかった。しかし、平穏な時代には山上の生活が不便なため、藩主をはじめ多くの家臣が山を降り、その結果、城郭と城下町が離れた特異な形態となっている。
 二の門・壺坂口門・吉野口門の内側は「城内」とよばれ、山中のすべての曲輪を含んだ範囲が「郭内」とよばれている。現在は、郭内に建造物は残っていないが、広大な縄張りと堅牢な石垣群が残されており、国史跡に指定されている。指定年月日〜昭和28年3月31日 (現地説明板より)

訪城日<2016年10月再訪問>
 高取城へは、近鉄壺阪山駅よりタクシーでまで行き、高取城跡を各所巡り、徒歩で国見櫓跡、二の門跡、一升坂、七曲り、黒門跡、夢創館を経て壺阪山駅まで帰りました。
 所要時間は、近鉄壺阪山駅に午前8時36分に着き、駅前のタクシー会社で、懇切丁寧に高取城についての説明を聞き、パンフレットをもらい(通称 八幡口登り口)まで行きました。車はここで行き止まりとなっており、七つ井戸までは車両通行止めです。以前は行けたようですが(落石の危険性あり)。ちなみにタクシー代は2.210円でした。そして、壺阪口門跡から二の丸、本丸を巡り、その後、大手門跡から千早門、宇陀門、二の門跡、黒門跡へと下り、徒歩で壺阪山駅まで行き12時30分頃着きました。途中の細かい時間は分かりませんが約4時間を費やしました。
 八幡口登り口()から大手門・本丸までは比較的登りやすいですが、松の門跡から矢場門跡、一升坂、七曲りは急坂が続き、崩れ落ちた石で歩きにくいところも多く、服装や靴などはトレッキングの装備が必要です。 


▲二の丸大手門石垣(大手門)
 この場所には、高取城の「大手門」があった。二の丸下段に構えられた枡形は、御成門または大手門と呼ばれ、主郭部である二の丸・本丸へ至る重要な門であった。この門を少し進んだ所が右写真となります。

▲二の丸大手門石垣
 大規模な枡形虎口の大手門。城内への入口である「二の門」「壺阪口門」「吉野口門」から城内に進むと、この「大手門」の前でひとつになります。この大手門が二の丸、本丸への唯一の入口です。
 本丸はまさに高取城の中心であり、高取山の最高所(標高583.61m)にあります。二の丸は高取城で一番広く日当たりのよい平場があり、藩主の屋敷や政庁がありました。ここから本丸まで289m。

▲二の丸石垣
 二の丸下段から見た、御殿のあった二の丸上段を囲む石垣。

▲十三間多聞跡
 二の丸上段への入口

▲二の丸跡
 ここには藩主の居館であった御殿があった。ここから本丸を目指すと右写真の太鼓櫓・新櫓の石垣がそびえる。

▲二の丸跡から見た太鼓櫓跡(左側)と新櫓跡(右側)の連なった石垣
 二の丸と接する面は天守の前衛線であり、虎口は馬出しのように左右に設けられ守りを固めていた。石垣の左手(太鼓櫓側)を廻ると、本丸への入口である十五間多聞跡が位置する。

▲十五間多聞跡
 本丸の西側には、前面に十五間多聞を、側面に新櫓と太鼓櫓を配した馬出曲輪が設けられ、本丸を強固に防衛する。この多聞跡を入った右手の状況が右写真。

▲本丸側の太鼓櫓(右側)と新櫓(左奥)の石垣
 この場所は本丸下段にあたり、手前側が十五間多聞跡、反対側には天守郭が構えられている。
 
▲天守曲輪側から見た新櫓跡・太鼓櫓跡の石垣の連なり
 石垣中央から左側が新櫓の石垣、右側が太鼓櫓の石垣。石垣右端は十五間多聞跡。石垣左端(新櫓)の手前(搦手口)を下って行くと七つ井戸に至る。明治5年(1872年)の廃城で櫓のほとんどが撤去され、建物はないが、石垣はほぼ完全な姿で残る。

▲本丸下段跡
 太鼓櫓のあった石垣上からの写真。中央奥の石垣は天守台、手前左下は十五間多聞跡。

▲天守台石垣
 本丸は二段に構えられ、上段は天守郭で、北西隅のこの天守台石垣上には三重三階の大天守が築かれていた。石垣は打込接が採用され、隅石は算木積みになっている。

▲天守郭石垣(北面)
 右端の石垣は、天守台石垣。左端が虎口となる。

▲天守郭虎口
 虎口(城内の出入口)は、重要な防衛拠点であり、虎口からは城内が見通せないように通路を屈折させており、過剰なまでの防衛力を誇っていた。

▲天守郭虎口
 この虎口は、Uターンをしないと、郭内に入ることができない精緻さが見られる。一番奥の石垣は、大天守台石垣で、手前には具足櫓が建っていた。

▲本丸(天守郭)跡
 右側は虎口、その後ろは天守台石垣、左端は小天守が建っていた場所となり、本丸は大小二棟の天守閣と鉛櫓・煙硝櫓を多聞櫓(塁上に設けた細長い単層の櫓)と塀によって接続する。これを連立式形態といっている。
 東西約73m南北約64mの凸字型の平面をなしている。地形の変化に対応して築かれた山城は、自然に不規則な縄張りとなる。しかし、この本丸は平城城郭のような整然さを有するので築城技術の完成したころの構築とみなされる。

▲大天守台石垣
 大天守台の右には具足櫓が建ち、隣接してすぐ右に天守郭虎口が築かれている。

▲大天守台石垣の地下1階部分(穴蔵)
 この天守台上には、三重三階地下一階の大天守がそびえていた。

▲穴蔵
 大天守台石垣の地下1階部分。この後、本丸下段に下りて搦手口から七つ井戸に向かいます。

▲搦手口
 新櫓跡そばの搦手口から、手前側を降って行くと七つ井戸に至ります。 

▲七つ井戸付近から見上げた段状に連なる石垣 

▲井戸跡(七つ井戸の一つ)
 この辺りに七つ、井戸があったことからこの名前がついたそうです。ここからさらに麓の車道に降りていくことは危険です。新たに落石の危険性が出ているため規制を続けています(2016年10月現在)
 引き返して、大手門跡まで戻り大手道を降って二の門跡・黒門跡へと向かいます。
 大手門から北へ、尾根伝いに千早門から宇陀門等を経て、黒門跡を目指して大手道を降りていきます。
大手道には、千早門・宇陀門・松ノ門・矢場門・三の門・二の門などの門が、急坂に段階的に設けられています。

▲千早門跡
 三の丸(城代屋敷)への入口。矢場門から宇陀門、千早門そして大手門の門台石組み遺構は、いずれも右折れ虎口として配置されている。兵法を強く意識した近世城郭の完成期の特徴を示す構造になっている。

▲宇陀門跡
 千早(ちはや)門から北に下りた三の丸手前に位置する。

▲松ノ門跡
 宇陀(うだ)門から北へ下った門跡。

▲矢場門跡
 
松ノ門から武器櫓跡を過ぎて下った所にある。松ノ門跡から矢場門跡にかけては、崩れ落ちた石で歩きにくい坂道が続く。

▲国見櫓跡
 矢場門跡から三の門方向に少し下ったところを左へ30mほど入れば着く。国見櫓は城内の北西に張り出した場所にあたり、まさに国見をするのにふさわしい場所であった。また、高取城下町の土佐街道から陽を受けて光る国見櫓台の石垣が白い点として確認できる。

 ここから本丸まで763m。 壺阪山駅まで4.264m。

▲国見櫓跡から大和の国を一望
 眼下に見えるのは高取町役場、近鉄壺阪山駅周辺。天候がよければ、六甲山や大阪市内のビル群・比叡山も見渡せる「まほろば眺望スポット百選」の絶景の場所となっている。

▲二の門跡
 二の門以内を「城内」と称する。

▲二の門水堀
 山城としては珍しい水堀が設けられていた。絵図などには「池」と記されている。

▲猿石(高取町指定文化財)
 高取城二の門外に所在し城下町に下る大手筋と明日香村柏森へ下る道筋の分岐点に位置する。花崗岩製で高さ85㎝幅75㎝厚さ65㎝を測る。目と鼻は円形で顔面は丸く平坦である。口元の両端をあげ耳は顔側面の全体にとる。手は右手をややあげている。陽物らしい表現もみられる。背中にも表現がみられるか明確ではない。飛鳥の「猿石」と同様に現在の明日香村平田から掘り出され高取城築城の際に石垣材として運ぶ途中にこの場所に置かれたようである。飛鳥時代の製作と考えられている。猿石がのせられている台石は古墳の石材の可能性がある。

▲一升坂
 この坂は古くから「一升坂」と呼ばれ、「一升坂」という名称は、高取城築城の際に、急坂であるため石材を運ぶ人夫に米一升を加増したことによるといわれている。それほどの難所であったことが、坂の名称の云われとなっています。

 ここから本丸まで1.154m。 壺阪山駅まで3.619m。

▲七曲り
 曲がりくねった道は、古くから「七曲り」と呼ばれており、尾根につくられた大手道で、くねくねと曲がっている。道が曲がっているため、戦の際にはなかなか上へは進めない。城内には「竹皮」を入れておく「竹櫓」があり、敵の進入を防ぐため竹皮をまきすべりやすくしたり、竹を倒して敵を防いだと伝えられています。


▲大手道登城の始まり
 近鉄壺阪山駅から古い呼称の土佐街道を通って(城下町)高取城へ向かうとこの場所に着き、ここからの道は、古くは「大手道」と呼ばれ、往時は今より道幅は広く、馬や駕籠が行き交っていた。これから大手門まで長い上り坂が続く。宗泉寺は、ここから右に行ったところにある。このあたりは別所郭と呼ばれ、高取山中に点在する曲輪(防衛陣地など)のひとつ。植村家の菩提寺(初代植村藩主の邸宅跡)である宗泉寺を中心に侍屋敷の平場が連なっており、曲輪の入口には高取城の一の門である黒門があった。黒門跡から本丸までは高低差が350mある。

 ここから本丸まで1.836m  壺阪山駅まで2.937m。

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