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たかとりやま
高取山城 (瀬戸内市邑久町東谷)
「山頂の現地説明板より転載」
【231号線(県道神崎邑久線)バス停東谷より望む高取城跡】
▼高取山城跡/山頂より砥石城跡方向を望む
▼本丸跡
▼手前左が三の丸跡、写真中央の奥が本丸跡。右方向に少し進めば二の丸跡。
※写真左は、登城口。
登城口から山頂まで徒歩約30分。
「歴史」 備前守護代浦上氏の重臣の高取氏が居城したとの伝承があるが、築城期が定かでなく、その後、千町平野南部を拠点に島村氏が居城したと推定され、応仁年間(1467〜69)には備前守護代浦上氏に仕える島村氏の名がみえる。
『備前軍記』によれば、享禄4年(1531)に浦上村宗の重臣として高取城主島村弾正左衛門貴則の名もあり、島村氏は代々この城を居城に浦上氏に仕えていたと考えられる。貴則の子豊後守は、天文3年(1534)この地域を基盤に国人化していた宇喜多能家を砥石城に攻め滅ぼし、浦上氏隷下の国人に成長する。しかし、島村豊後守も永禄2年(1559)に宇喜多直家に謀殺され、居城も攻略される。(現地説明板より)
※二の丸跡
【高取山城跡略図】
標高163mの高取山山頂に位置する山城の高取山城の城郭構造は、頂部に楕円形の本丸を構え、頂部から三方に延びた尾根には郭の先端に堀切を設けて切断している。
現在は、曲輪と堀切が城砦の面影をしのばせる。
※堀切とは空堀のことで、地上を深く掘り下げた堀。
高取山城登城口より本丸まで巡る |
◆写真㊧㊦
※上の高取山城跡略図の現在位置から見た堀切部分。
※写真に写っている標識に書かれているように、ここからは曲がりくねった登城道になり、かなり急勾配の道が続く。
※「5合目 あと一息」の標識が立つ。ここからは、ほぼ、まっすぐな道となる。
※三の丸跡
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