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滝 山 城
【滝山城の歴史】
■国指定の史跡、滝山城は戦国時代の中頃、大永元年(1521年)に武蔵国守護代の大石定重が、この城の北西約1、5kmの高月城から移り築城したものと伝えられています。
■定重の子定久のとき北条氏康の支配を受け、その子氏照を養子に迎えて、滝山城は大石氏から北条氏照の居城となりました。氏照はさらに城を拡充し、その規模雄大さは当時関東屈指の山城と称されました。本丸、中の丸、二の丸、空堀などの巧みな遺構にそれがうかがえます。
■上杉謙信、武田信玄などから猛攻を受けた滝山城ですが、なかでも信玄、勝頼父子による永禄12年(1569年)10月の城攻めは、熾烈を極めたといわれています。後に北条氏照は領地の備えをより固めるため、南西約9kmの地に八王子城を築き滝山城から移りました。移転の時期は定かではなく、天正の中頃(1580年代)と推測されます。
■白亜の天守閣も、高い石垣もない、典型的な中世城郭の縄張りをもつ滝山城ですが、木立の深い城址にたたずむとき、かつて名城といわれた滝山城の面影がしのばれます(写真は本丸に建つ城碑。文は現地発行リーフレットより転載)
【所在地】
東京都八王子市高月町、丹木町
【遺 構】
曲輪 土橋 空堀 井戸 土塁
【形 状】
川沿いの絶壁を利用した山城
【史跡区分】
昭和26年に国の史跡として指定
【交 通】
JR中央線八王子駅又は京王電鉄八王子駅から(ひよどり山トンネル経由)戸吹行西東京バスに乗車、滝山城址下で下車、徒歩約15分。
【現 況】
 八王子市の北端、多摩川と秋川の合流点の南側に広がる加住丘陵は、一部が都立滝山自然公園に指定されています。
 都立滝山公園はこの自然公園の中ほどにあり、多摩川を望む標高約160mの丘に滝山城址があります。城址は遺構の保存状態がよく、周辺は豊かな雑木林に覆われています。
※訪問日〜2016年3月 ※公園案内図は現地説明板より
【コの字型土橋】


(左)拡大図解説(現地説明板より)
 堀を掘る際に、一部を土のままに残し進路として使う場所を土橋という。当時はもっと狭く、敵方の侵攻に対して4回も体の向きを変えて進ませ、側面攻撃ができるように工夫していた。
 敵の直線を防ぐための土橋であり、大変貴重な城郭遺構である。

(上)現在地あたりから見たコの字型土橋。
【二の丸の集中的防御】滝山城で最も防御性に優れているのが二の丸である
 
この城の大きな特徴は、二の丸の防御方法にある。二の丸へは三方面から侵入できるが、どの方面にも「馬出」という平場が備えられている。

 その中の二カ所は方形の平場で「角馬出」と呼ばれている。寄せ手(敵方)はこの馬出を占拠しなければ、二の丸へは侵入できなかった。

 こうした二の丸防御の堅固さから、永禄12年(1569)10月、甲斐武田信玄との滝山合戦において、城主氏照は二の丸櫓門の上で奮戦し、敵を退けたと軍記物に語られるようになった。

 軍記物の記述の真偽はともあれ、このとき氏照は自らの書状で古甲州街道沿いの城下「宿三口」へ兵を繰り出し戦ったと、越後の上杉謙信に伝えている。
(二の丸拡大図と文は現地説明板より)
【千畳敷角馬出】



(左)
拡大図【馬出(少人数で守れる出入口前の防御施設)】
 虎口(こぐち)(出入り口)の前方に設けた空間を馬出という。この場合は方形に作られていることから「角馬出(かくうまだし)」と呼ばれている。馬出があることによって大変堅固な守りとなり、守備する城兵の出撃も容易である。二の丸の三ヶ所の出入口には馬出がそれぞれに設けられている。
(上)千畳敷跡。右側に角馬出が位置する

(拡大図は現地説明板より)

▲千畳敷角馬出
北側から見た馬出。後方は二の丸方面。

▲千畳敷角馬出
南側から見た馬出。左が空堀跡、堀の右側、盛土部分が角馬出。

▲「二の丸拡大図」の「行き止まりの曲輪」
 千畳敷側から見た「空堀(左部分)」と、その右は、縦長に築かれた「行き止まりの曲輪」

▲「二の丸拡大図」の「行き止まりの曲輪」
 大馬出側から見た「行き止まりの曲輪」と「空堀(右側部分)」
【行き止まりの曲輪(ふくろのねずみ)】
(左)「行き止まりの曲輪」拡大図(二の丸拡大図部分)
 「行き止まりの曲輪」とは「ふくろのねずみ}という意味で、両端が狭い土橋になっていて行き止まりのような形になる。寄せ手側には行き止まりのからくりだが、城兵からすると格好な馬出(出撃用)となり、実に巧妙な防御が施されている。
(上)大馬出(おおうまだし)
 大馬出は大勢の城兵が守り、二方向からの通路を抑えている。築城家は、二の丸を防ぐことによって本丸、中の丸を守れると考えたようである。

▲拡大図の現在位置から見た「行き止まりの曲輪」
 駐車しているところから後方が行き止まりの曲輪。手前は土橋。なお、駐車しているのは、作業中の公園管理センターの車です。

▲「行き止まりの曲輪」と「空堀」
 空堀の右側は二の丸となる。

【中の丸〜本丸】

 「中の丸」の山腹には腰曲輪と呼ばれる平場が多摩川に向かって数多く設けられている。このことから、北側の多摩川方面に対して警戒していたと考えられる。

 本丸の虎口は内枡形となっており、単に敵の直進を妨げる枡形としてだけではなく、前面の堀切に架けられていた引橋を収容するための空間でもあった。

▲中の丸の「枡形虎口」


▲中の丸跡
 本丸の次に重要な曲輪。

▲本丸枡形虎口(城外側)
 中の丸から引橋越しに見た本丸の枡形虎口。引橋を渡って右折れに進むと右の写真となる。

▲本丸枡形虎口(城内側)
 発掘調査から、かつては礫敷だったことがわかった。


▲引橋(木橋)
 本丸(左側)と中の丸の間にかかる引橋(復元)。本丸の枡形は引橋を収容する場所でもあった。人口的に掘られた大堀切の上に架けられており、本丸が最終的な砦となっていた様子がわかる。

▲引橋の架かる人工的に掘られた大堀切
 「大堀切」はもっと深かったことが試掘によって確認されている。
 

▲本丸周囲を取り囲む急崖

▲本丸跡
 上下二段に築造された本丸。右手は引橋と連結する枡形虎口。

▲本丸南側枡形虎口
 本丸内から見た虎口。本丸の主たる出入口は二カ所ある。一ヶ所は中の丸から引橋を渡って入る虎口。もう一ヶ所は南側に設けられたこの虎口。
 枡形は敵の直進を防ぐための工夫である。もし敵がこの虎口に侵入すると、体の左側に城兵の攻撃を受けることになる。

▲中の丸から多摩川方面を望む。写真下側は腰曲輪

コの字型土橋
 三の丸から千畳敷に向かって展開する「コの字型土橋」と堀。
小宮曲輪(家臣屋敷)
 枡形虎口が左側に築かれており、小宮曲輪の内部は土塁でいくつかの屋敷に区切られていたと考えられる。
(左)滝山城は、縄張の見事さから、全国有数の戦国時代の城郭として評価されている。多摩川に面する河岸段丘上に築かれており、多摩川を最大の防御線としている。縄張の特徴は、尾根筋に堀切を設けず、横堀を用いて完全な遮断線を設定している点にある。虎口に関しては、枡形虎口や馬出を設けるなど、侵攻者への側面攻撃を仕掛ける仕組みの発達した構造を示している(縄張図は現地説明板より)
(上)大手口と思われる天野坂の堀底道。堀底道を抜けると、小宮曲輪、三の丸が展開する。さらに、三の丸から千畳敷にかけては「コの字型土橋」が築かれている。

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