【コの字型土橋】 |
|
(左)拡大図解説(現地説明板より)
堀を掘る際に、一部を土のままに残し進路として使う場所を土橋という。当時はもっと狭く、敵方の侵攻に対して4回も体の向きを変えて進ませ、側面攻撃ができるように工夫していた。
敵の直線を防ぐための土橋であり、大変貴重な城郭遺構である。
(上)現在地あたりから見たコの字型土橋。 |
【二の丸の集中的防御】滝山城で最も防御性に優れているのが二の丸である |
この城の大きな特徴は、二の丸の防御方法にある。二の丸へは三方面から侵入できるが、どの方面にも「馬出」という平場が備えられている。
その中の二カ所は方形の平場で「角馬出」と呼ばれている。寄せ手(敵方)はこの馬出を占拠しなければ、二の丸へは侵入できなかった。
こうした二の丸防御の堅固さから、永禄12年(1569)10月、甲斐武田信玄との滝山合戦において、城主氏照は二の丸櫓門の上で奮戦し、敵を退けたと軍記物に語られるようになった。
軍記物の記述の真偽はともあれ、このとき氏照は自らの書状で古甲州街道沿いの城下「宿三口」へ兵を繰り出し戦ったと、越後の上杉謙信に伝えている。
(二の丸拡大図と文は現地説明板より)
|
【千畳敷角馬出】
|
(左)拡大図【馬出(少人数で守れる出入口前の防御施設)】
虎口(出入り口)の前方に設けた空間を馬出という。この場合は方形に作られていることから「角馬出」と呼ばれている。馬出があることによって大変堅固な守りとなり、守備する城兵の出撃も容易である。二の丸の三ヶ所の出入口には馬出がそれぞれに設けられている。
(上)千畳敷跡。右側に角馬出が位置する
(拡大図は現地説明板より) |
▲千畳敷角馬出
北側から見た馬出。後方は二の丸方面。
|
▲千畳敷角馬出
南側から見た馬出。左が空堀跡、堀の右側、盛土部分が角馬出。
|
▲「二の丸拡大図」Aの「行き止まりの曲輪」
千畳敷側から見た「空堀(左部分)」と、その右は、縦長に築かれた「行き止まりの曲輪」
|
▲「二の丸拡大図」Aの「行き止まりの曲輪」
大馬出側から見た「行き止まりの曲輪」と「空堀(右側部分)」
|
【行き止まりの曲輪(ふくろのねずみ)】 |
(左)「行き止まりの曲輪」拡大図(二の丸拡大図B部分)
「行き止まりの曲輪」とは「ふくろのねずみ}という意味で、両端が狭い土橋になっていて行き止まりのような形になる。寄せ手側には行き止まりのからくりだが、城兵からすると格好な馬出(出撃用)となり、実に巧妙な防御が施されている。
(上)大馬出跡
大馬出は大勢の城兵が守り、二方向からの通路を抑えている。築城家は、二の丸を防ぐことによって本丸、中の丸を守れると考えたようである。 |
▲拡大図の現在位置から見た「行き止まりの曲輪」
駐車しているところから後方が行き止まりの曲輪。手前は土橋。なお、駐車しているのは、作業中の公園管理センターの車です。
|
▲「行き止まりの曲輪」と「空堀」
空堀の右側は二の丸となる。
|
【中の丸〜本丸】 |
「中の丸」の山腹には腰曲輪と呼ばれる平場が多摩川に向かって数多く設けられている。このことから、北側の多摩川方面に対して警戒していたと考えられる。
本丸の虎口は内枡形となっており、単に敵の直進を妨げる枡形としてだけではなく、前面の堀切に架けられていた引橋を収容するための空間でもあった。 |
▲中の丸の「枡形虎口」
▲中の丸跡
本丸の次に重要な曲輪。
|
▲本丸枡形虎口(城外側)
中の丸から引橋越しに見た本丸の枡形虎口。引橋を渡って右折れに進むと右の写真となる。
|
▲本丸枡形虎口(城内側)
発掘調査から、かつては礫敷だったことがわかった。
|
▲引橋(木橋)
本丸(左側)と中の丸の間にかかる引橋(復元)。本丸の枡形は引橋を収容する場所でもあった。人口的に掘られた大堀切の上に架けられており、本丸が最終的な砦となっていた様子がわかる。
|
▲引橋の架かる人工的に掘られた大堀切
「大堀切」はもっと深かったことが試掘によって確認されている。
|
▲本丸周囲を取り囲む急崖
|
▲本丸跡
上下二段に築造された本丸。右手は引橋と連結する枡形虎口。 |
▲本丸南側枡形虎口
本丸内から見た虎口。本丸の主たる出入口は二カ所ある。一ヶ所は中の丸から引橋を渡って入る虎口。もう一ヶ所は南側に設けられたこの虎口。
枡形は敵の直進を防ぐための工夫である。もし敵がこの虎口に侵入すると、体の左側に城兵の攻撃を受けることになる。 |
▲中の丸から多摩川方面を望む。写真下側は腰曲輪
|