このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

多聞城

多聞城(たもんじょう)〜石段の上が若草中学校で、現在は城碑のみが、近世城郭の先駆といわれた多聞城のあったことを伝える。1560(永禄3)年、松永久秀が、大和支配のために、奈良の町を一望できる東大寺北方丘陵に築いたのが多聞城であった。

多聞城概略
所在地】奈良市法蓮町・多門町
 近鉄奈良駅より徒歩15分。城跡は若草公民館の北、佐保川を渡って坂を上がると、奈良市立若草中学校があり、校門を入った所に「多聞城跡」と刻まれた石標が立っています。その校舎が建つ小丘は多聞山と呼ばれ、ここに450年前、戦国の武将松永久秀が、大和を支配する拠点として、多聞城を築いた。城跡は若草中学校内にあるため原則見学不可だが、近くの若草公民館に多聞城復元模型や、多聞城、城主、歴史等についての資料展示などがあり見学できます。

      

【別名】多聞山(たもんやま)城
      
      多聞城跡に建つ若草中学校は、多聞城の主郭跡(航空写真は現地説明板より)

【地形】標高115m.の眉間寺山(みけんじやま)に築かれた平山城。松永久秀は眉間寺山の名称を多聞山(たもんやま)と改称し、城を多聞城と称した。
(下写真)道路の突当りが若草中学校(多聞城跡)の校門。校門手前の右側に多聞城説明板が設置。

           
       

【築城年】永禄3年(1560)築城開始
 永禄2年(1559年)、松永久秀は、主君である三好長慶(みよしながよし)の命を受け、大和に侵攻した。久秀の主君は、近畿から四国にまたがる地域を支配した戦国大名で、その勢力が久秀の背景にあった。そのころの大和は、興福寺が守護で、その支配を受けていた。大和の国人(武将。在地領主)たちは、興福寺の支配を受けながらも、勢力争いをする群雄割拠の状態だった。大和を支配するには、興福寺の力を取り除き、国人たちを従わせる必要があった。そのため、次のような条件を考えて奈良の眉間寺山(みけんじやま)を選び、多聞城を築く。
 ●大和の新しい支配者であることを示す。
  興福寺を見下ろす。奈良の町の人が見上げる
 ●戦のために好適
  北側は急斜面、南側には佐保川があり、守りが堅い
 ●財源を確保する
  当時の日本三大商工業地の一つ奈良の経済力に着目。京都と奈良を結ぶ街道をおさえる
 ●大和を制圧後、統治するのに適している
  やはり大和の中心は奈良。政治・裁判などにも好都合

 単に戦のためだけを考えた城でなく、日常生活もし、大和一国を支配するために政庁としても機能する城として多聞城を築く。城はやがて織田信長に明け渡され、築城からわずか20年足らずで筒井順慶によって破壊された(文は若草公民館展示史料より)
【築城者】松永久秀(まつながひさひで・1510〜77)
【文化財指定区分】なし
【天守形態】天守に相当する「4階櫓」があった
         
         ▲若草公民館展示資料より
<メモ>天守のルーツとされる「4階櫓」は、1577年に織田信長によって解体の上、安土城に運ばれた。そのため、信長が多聞城を参考にして安土城を築かせたのではとも考えられる。したがって、多聞城は最初の近世城郭であったかも知れません。また、近世城郭に付きものの「多聞櫓」は、この多聞城より起こったと言われています。

【現況】城跡には奈良市立若草中学校が建ち、城の面影はほとんど失われている
 ※昭和22年に多聞城跡に若草中学校が建設されましたが、残念ながら当時は文化財保護法がまだ制定されていなかったため、事前に学術的な発掘調査は行われませんでした。そのため、多聞城の詳細がかなり不明になってしまいました。

 
▲若草中学校の校門。多聞城の大手門は、このあたりにあったと考えられる。校門は城をイメージして造られている。

 
▲堀切跡。若草中学校東側の丘陵を切断して曲輪を防御する空堀。橋は中学校(右側)と運動場(左側)を結ぶ。

【歴史】多聞城は、戦国武将、松永久秀が築いた城です。永禄2年(1559)、久秀は大和に侵攻し、翌年、奈良の町を見下ろす佐保山の一画に多聞城の築城を始めました。
        
        ▲城跡(若草中学校の駐車場)から望む若草山と東大寺大仏殿
<メモ>東大寺大仏殿は1567年、久秀が、対立する筒井順慶や三好氏が布陣していた東大寺で戦いを繰り広げた際に焼失している。

永禄8年(1565)、奈良を訪れた宣教師ルイス・デ・アルメイダは、城は瓦葺で白壁の城壁を備え、城内は障壁画で飾られるなど豪華な造りであったと書き残しています。
■後に「多聞櫓」と呼ばれる長屋状の櫓や、後世の天守に相当する「四階櫓」が造られるなど、近世城郭の先駆けとなる城でした。
■松永氏が退いた後、
天正2年(1574)、織田信長が多聞城に入りました。しかし、天正4年(1576)には、信長により多聞城の取り壊しがが命じられ、築城からわずか十数年で破却されました。建物の一部は安土城や二条城で再利用され、残されていた石材は筒井城へ運ばれたことが知られています。
■城跡は、現在の奈良市立若草中学校の校地と、西側の光明皇后陵、聖武天皇陵を含む範囲と考えられ、北面と東西には堀を巡らし、南面は佐保川で奈良の町と区切られていました。

      
     ▲多聞城の水堀の役目を果たした佐保川

発掘調査では、石造物を再利用した石組の溝や井戸、多数の瓦などが見つかっています。また、現在でも校門の東側(下写真)には、校地一帯で発見された墓石類が手厚く供養されています(文は現地説明板より)
            

                                              
【若草公民館】奈良市川上町575
 多聞城に関する情報を展示している。

 開館時間 9:00〜17:00
 
 休館日 月曜日・国民の祝日・年末年始
 
 見学自由(無料)
 
多聞城復原想定図(若草公民館展示)

 
多聞城復原模型(若草公民館展示。写真に文字を追記)
城は細長い多聞山の地形を活かし、構造物を要害に設け堀を巡らす。頂上部は大部隊の常駐が可能な広さを有する。

■多聞城の姿<史料から>
【瓦葺屋根に白壁】多聞城を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダが本国に送った手紙に次のように書かれている。「・・・多聞城の家は、塀や櫓もいっしよで、とても白く光沢のある壁を塗っている。また、家や櫓は、指二本分の厚さがある、いろいろな形をした真っ黒な瓦で覆っている。」『耶蘇会士日本通信』
室内は、金箔地の上に描かれた絵で飾られていたり、能舞台と思われる建物や、美しい庭があったことも書かれている。
【畳を敷いた部屋がたくさんあった】多聞城へ百帖分の畳面が運び込まれたことがわかる手紙が京都の東寺に残っている。『東寺百合文書』
【城内に茶室が二つあった】多聞城内であった茶会に招かれた奈良の商人松屋久政が記録した茶会記に「六畳」と四畳半」の茶室が出てくる。『松屋会記』
【四階建ての櫓があった】興福寺の僧多聞院英俊が書いていた日記に、多聞城の「四階ヤグラ」を解体したという記事がある。『多聞院日記』

■多聞城の姿<発掘調査から>
【瓦があった】多聞城築城のために新たに焼いた瓦が多く出土した。寺院の瓦を流用したと考えられるものも出土した。築城のために専用に焼く「城郭専用瓦」としては、我が国で最初と言われている。
【柱の下に敷いた礎石も確認】そのほか、基礎に工夫を加えた土塁をはじめ、井戸跡や排水溝跡なども確認された。
【石垣があったかどうかは確認されていない】史料『多聞院日記』には、石垣があったと考えられる記事がある。
(文は若草公民館展示資料より)


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