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田辺城(たなべじょう)データ | |
所在地 | 京都府舞鶴市南田辺 |
別 名 | 舞鶴城(ぶかくじょう)。「舞鶴(まいづる)」の地名は、田辺城の雅称(舞鶴城)に由来している。 |
地形種類 | 平城。 舞鶴市の伊佐津川と高野川に挟まれた平野部に築かれ、北は舞鶴湾に臨み、南は沼地という自然の要害地であった。2重・3重の堀と塁壁がめぐらされ、平城ながら堅固な城であった。 |
遺 構 | 本丸・二の丸石垣 天守台石垣 堀 |
文化財指定区分 | 舞鶴市指定史跡 |
再建造物 | 隅櫓[昭和15年(1940)復元され、彰古館と名づけられた] 城門[平成4年(1992)復元。城門2階は田辺城資料館とされている] |
沿 革 | 天正8年(1580)、宮津城主の細川藤孝(幽斎)・忠興父子が築城に着手、数年後にほぼ完成した。田辺城には、慶長五年(1600)、関ヶ原合戦の前哨戦として、石田三成方の軍勢に包囲された田辺城に籠城した藤孝(ふじたか)が善戦、「古今伝授」の縁で勅命により和睦開城を実現したエピソードが残る。 細川氏のあとに入った京極氏のとき大がかりな城郭の拡張がおこなわれ、次の牧野氏時代に諸門や石垣が整備された。田辺城は細川・京極・牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的存在であった。明治6年(1873)、田辺城は廃城とされ、本丸と二の丸の藩主庭園が舞鶴公園となり、わずかに石垣が残された。 |
◆古今伝授に守られた田辺城
関ヶ原合戦の前哨戦として、石田三成方1万5千人の軍勢が田辺城を攻めました。忠興(ただおき)率いる主力軍3千程が関ヶ原で戦い、豊後国杵築城では1千の兵が戦うなど、この時期細川家は4つの戦線で戦っていました。そのため幽斎の軍勢はわずか5百人程度で、峰山、宮津の城を焼き払い田辺城に籠城しました。しかし、幽斎は文芸界のトップに立つ「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)であったため、古今伝授の廃絶を憂慮した後陽成(ごようぜい)天皇は田辺城を囲む西軍の陣に勅使を送りました。「幽斎は古今集の秘奥を伝え帝王のご師範で、神道・歌道の国師である。速やかに囲みを解くべし」…天皇の意向を知った西軍の諸将は大いに驚き、ただちに包囲が解かれたのは有名な話です。幽斎は、わずかな手勢で52日間を小城に拠って戦い抜いたのでした。 (現地案内パンフレットより転載)
変らない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものです(そのように私の歌と心も残るならば有り難いことです)。この秘伝書と和歌を伝えた場所が、心種園(しんしゅえん)に建っている「古今伝授の碑」のところと伝えられている。のちの城主牧野親成(まきのちかしげ)は、その歌にちなんで城内の庭園に「心種園」と名づけた。
細川幽斎《細川藤孝は隠居後、幽斎玄旨と号する》ゆかりの庭園。庭園名は幽斎(ゆうさい)の和歌から付けられた。慶長5年(1600)7月、関ヶ原の戦いにさいし、留守を預かる幽斎が西軍の福知山城主小野木氏らに包囲され、50余日籠城。田辺城に籠城した幽斎が万一討ち死にすれば、歌道の奥義が廃絶することを憂慮した後陽成天皇は、勅使を送り幽斎に開城を勧めた。しかし、幽斎は、開城は武人の本意ではないと固辞し、勅使に古今伝授の秘伝書と和歌一首を託した。その和歌一首が下の歌です。
「いにしへも今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」
◆古今伝授したと伝えられる城内の心種園
田辺城資料館展示物(写真左・下)
(左)牧野家ゆかりの甲冑(かっちゅう)
牧野家家臣の所蔵していた江戸時代初期の甲冑。実戦向きにつくられており、兜と胴には強度を確かめるための火縄銃による試し撃ちの傷跡もみられる。
(下)田辺城復元模型
舞鶴市田辺城資料館
◆古今伝授(こきんでんじゅ)の碑
田辺籠城と古今伝授 |
◆田辺城の心種園に建つ「古今伝授」記念碑
田辺城のあるじ細川藤孝(1534〜1610))は、武勇の将であるとともに、当代屈指の文化人であった。京都の東山で室町幕府の重臣三淵晴員(みぶちはるかず)の次男として誕生。足利将軍家・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。
天正10年(1582)49歳で家督を忠興(ただおき)に譲り隠居、幽斎玄旨と号する。幽斎は、「古今和歌集」の秘伝を三条西実枝(さんじょうにしさねき)から伝授されるほどの、この時代における歌道の第一人者であった。
復元された櫓・門 |
遺 構 |
◆細川忠興と細川ガラシャ
■細川忠興(1563〜1646)
細川藤孝の長子として勝龍寺城で出生。天正6年(1578)、明智光秀の娘玉を妻に迎えた。天正8年(1580)、織田信長から丹後国12万石を与えられる。八幡山城を居城としたが、のちに宮津に新城を築いて移る。天正10年(1582)本能寺の変が起こり、岳父の光秀は忠興の協力を期待する。だが、彼は妻をいったん離別、丹後味土野に蟄居させて、光秀と袂を分かった。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直前には、留守を父に任せて徳川家康の東軍に属し、岐阜城を攻略。本戦でも忠興軍は活躍し、戦後に、九州の豊前・豊後で、39万9千石を与えられている。
■細川ガラシャ(1563〜1600)
本名は玉。ガラシャは洗礼名。明智光秀の3女。織田信長の縁組取り持ちで、16歳で細川忠興に嫁ぐ。父光秀の謀反(本能寺の変)で離別。2年後、秀吉に許されて、再婚の形で細川家にもどる。関ヶ原合戦の折大阪の細川屋敷にいた玉は、夫の命に従い西軍の人質にとるという命令に死をもってこたえた。
■写真㊦細川忠興画像
㊨細川ガラシャ夫人
●交通ガイド
JR舞鶴線西舞鶴駅から徒歩5分。
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