このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

      龍岡城五稜郭
                   
たつおかじょうごりょうかく
      
      龍岡城五稜郭は函館とともに日本に二つしかない星型稜堡の洋式建築で貴重な史跡

【所在地】長野県佐久市田口3000 (築城当時の所在地名~信濃国佐久郡田野口村字龍岡)
【交 通
JR小海線臼田駅下車、徒歩20分。バス便なし。※臼田駅から龍岡城まで約1.4キロメートル。龍岡城駅より臼田駅からのほうが近い。

●左案内図は現地説明板より転載
●訪問日=2016年3月
【築城年】
 元治元年(1864)3月に着工、慶応3年(1867)4月、建物が完成し竣工祝いを行う。しかし、堀・石垣同様内部建物も瓦は全部準備しながら、一割にも満たない使用で、建物のほとんどは板葺きであり、未完成であった。文久3年(1863)、三河奥殿藩主松平乗謨(まつだいら のりかた)は幕府へ信州田野口への本領移転を願い出て許された。その本拠として新たに築城されたのが龍岡城である。

【築城者】松平乗謨(のりかた)~大給松平氏最後の藩主。明治になり大給 恒(おぎゅう ゆずる)と改名
<龍岡城址に建つ大給恒像>
      
【龍岡城概略】
■信州に一万二千石、三河に四千石の封地を持つ三河奥殿藩の松平氏は、宝永以来百六十年間、三河に本拠を持ち、佐久には陣屋を置いて、領内二十二ゕ村の統治をつづけてきたが、11代乗謨になって、幕末激動の状勢に応じて信州に居館を移すことを計画し、元治元年(1864)三月着工、慶応三年(1867)竣工、地字名をとって龍岡城と称した。

■用地一万余坪は田野口村より、石材木材などは領内より献納、総費用四万円余であった。藩主乗謨は学才識見ともにすぐれ、幕府の陸軍奉行、老中格、陸軍総裁などの要職につき明治に入っては、佐野常民と共に、赤十社の前身である博愛社を創設し、副社長、又、賞勲局総裁など歴任した。築城にあたっては、稜堡式築城法を用い、いわゆる五稜郭が成立した。そしてこれより四年前完成した函館五稜郭址とともに、わが国城址の中においてただ二つの貴重な洋式城郭である。廃藩後明治五年、城はとりこわしとなったが、さいわい濠と石垣、建物の一部大台所を残している。なお、龍岡の名は明治元年に改められたものであり、築城当初の正式な名称は田野口藩陣屋である(文は現地説明板及びその他より)。

【別 称】城は乗謨自ら設計した洋式の稜堡式城郭(星形城郭)であったため、その形状から龍岡五稜郭と呼ばれている
  
   (平面図は現地説明板より転載)
【形式と縄張】
形式
~「陣屋」として築城された平城。 

縄張
~稜堡形式を採用した内城(本丸)の五稜郭と、その外側に板塀の巡る外城からなる。大給松平氏は代々「陣屋格」といい、城を持つ資格がないため、五稜郭内部には天守閣その他さまざまな防備施設など作れないので、一般政務と藩主の住居を兼ねた御殿と、陣屋内住居を義務付けられている藩士の小屋・番屋・太鼓楼・火薬庫の他、藩に貢献のあった歴代藩主3名を祀った。三社様・稲荷社その他で、門は大手門と東側通用門が作られた。 
 
 堀の幅は大手橋付近がもっとも広く9・1メートルあり、他はやや狭くなって平均7・3メートルとなるが、北・北東・東南の三稜堡をカバーするだけしかなく、南西、西側二稜堡を囲む約200メートル(俯瞰図の穴門から黒門にかけての上側)は堀が巡らず全周することなく未完成に終わっている。門は北面に大手門、東面に通用門、南面に穴門、北西面に黒門がそれぞれ開口していた(俯瞰図は「五稜郭であいの館」展示資料に追記し転載)。

【史跡区分】 国史跡~昭和9年(1934年)5月1日指定

【現 況】
 明治4年、廃藩とともに兵部省は全国の城郭取り壊しを布告した。五稜郭は地所・石垣はそのままとし建物は入札払い下げとなり、残りは取り壊されてしまったが、御殿の一部お台所だけは幸い翌5年学制発布により学校としての使用申請が認められたため、唯一の貴重な遺構として残された。敷地は民有化に帰し、その大半が小学校用地として使用され、お台所は長く校舎として使用されてきたが、昭和4年、現在地に移され、昭和35~6年にわたり半解体復原工事が行われた。
     
       写真は「五稜郭であいの館」展示資料に追記し転載

                  龍岡城址(内城)の田口小学校
                  
【関連施設】佐久市歴史の里・五稜郭であいの館(城に関係した資料を展示した博物館)
 龍岡城五稜郭大手門の向かいに位置し、五稜郭に関する写真や図も展示されその概要を知ることができる。施設の中では、五稜郭保存会の方がおもてなしをしており、五稜郭のお話や、お茶を出したり情報を教えてくれます。
                  
【遺 構】

龍岡城五稜郭大手口跡
 当時の大手口には大手門が建てられていた。大手門を過ぎると右手に番屋・太鼓楼、正面に御殿玄関、その左側にはお台所(写真右奥の白い建物)が配置されていた。


大手門横の石垣と水堀
 堀の幅は大手橋付近がもっとも広く、石垣の高さは、堀底から3.6m、その勾配は頂上と底で29cmと直立に近い。採石した石は形に応じ巧みに組み合わせして積む「切込接(きりこみはぎ)」で隙間をなくしている。この付近の積み方は、「切込接布積(ぬのづみ)」の造形美を見せている。


大手橋

南から見た大手門付近の石垣と水堀
 大手門あたりの石垣の積み方は、ほぼ高さの揃った石材を横に並べて、積み上げていく布積となっている。目地が横方向に通っているのが特徴。


お台所
 陣屋御殿は払い下げられ、唯一このお台所のみが現存。現在の位置は築城当時より移動している。

砲台の石垣
 北西端の稜堡。石垣上に砲台が配されていた。このあたりの石垣は、石の配列を菱形にした亀甲積(きっこうづみ)で、頂上には板石をもってわづか堀方向に突出させ、石垣をよじ登る敵の侵入を防ぐ武者返しの刎ね出しが設けられている。この周辺の堀は未完成であった。


東端の稜堡
 左奥が通用門、右奥が大手門となる。


通用門付近の石垣と水堀

通用門から五稜郭内を望む
 橋の後方の建物はお台所。

通用門横の土塁(土居)
 石垣上の土塁はしっかりした芝土塁である。


外城大手虎口
 この場所は、龍岡城の北の入口にあたり、敵の侵入を防御し、攻撃的機能も兼ね備えた鉤の手状の枡形として良好な状態で保存されており、貴重な遺構である。

外城大手虎口
 亀甲積の石垣が残る枡形虎口。
 
 

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