このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

左)駐車場からみる鎮守丸。左手が本丸、右に行くと二の丸・三の丸へと続く。(下)鎮守丸跡〜神社が建ち、井戸があるとのことですが、未確認です。

  ちゃうすやまじょう
茶臼山城

【所地在】 岡山県小田郡矢掛町東三成
【別 名】 中山城
【築城者】 毛利元清(毛利元就の六男)
【築城年】 天正11年頃(1583)、茶臼山に新城を築き、猿掛城からこの茶臼山城へ移った
【形 式】 矢掛町東三成と矢掛の間に横たわる標高114m.の丘陵に築かれた平山城
【遺 構】 曲輪跡・石垣・水堀・井戸
【現 況】 矢掛町合併30周年を記念し、「茶臼山文化の丘」として整備されている

車での登城口は、写真(左)中村橋を渡って直進し、梵鐘のある所を左折(写真中)。写真(右)この梵鐘は当地の鋳物業の昔を忍ぶことができる貴重な作品。矢掛町重要文化財。

◆茶臼山城周辺図 徒歩または車で登城できます 梵鐘のある所から車で頂上近くまで行けます

 慶長2年(1597)元清没後、茶臼山城と元清の遺領は毛利氏の総師輝元の直轄するところとなったが、関ヶ原の戦いで敗れ、毛利氏は防長二国(現山口県)へ退いた。このとき、茶臼山城は破却されたようで、その後再び城主を迎えることはなかった。城跡には、本丸・二の丸・三の丸等の遺構が残る。東麓には水堀の遺構も残っている。参考文献<山陽新聞社発行「宿場町矢掛」>

『歴 史』
 備中統一の野望を抱いていた備中松山城主・三村元親は、天正2年(1574)から天正3年にかけて毛利・宇喜多連合軍に攻められ滅んだ。この戦いは「備中兵乱」と呼ばれ、三村氏の備中の遺領は戦功のあった毛利方の諸将に配分された。このとき、現在の矢掛町の大半及び真備町の西部を含む小田川中流の村々は、毛利元就の六男元清(もときよ)に与えられ、元清が猿掛城主となった。

 その後、天正11年頃(1583)毛利元清が猿掛城を嫡子秀元に譲り、隠居するために茶臼山城を築いたといわれている。天正19年(1591)、諸大名に朝鮮出兵を命じた豊臣秀吉は、翌文禄元年には自ら肥前名護屋へ出陣するため大軍を率いて山陽道を西下した。このとき、秀吉は茶臼山城を宿舎にあてたと伝えられている。

●城址から望む小田川と矢掛の町並み

▽茶臼山城地図[城内説明板より]

▼三の丸跡と井戸跡

■東麓に残る堀跡
地元の人は堀池と呼び、内堀で、かっては小田川まで堀があったとのこと。

    茶臼山城の遺構
      (本丸等は未訪問。遺構の一部)

◆駐車場から望む本丸跡 中央のテレビアンテナの建つ処。階段状の歩道がありますが、訪問したのが9月初旬で、草木が階段を蔽っていたため、本丸には登っていません。
■茶臼山城址 テレビアンテナの建つところが 本丸跡

左)鎮守丸にある案内説明板。(下)鎮守丸端の石垣。当時のものかどうかは不明。

写真(左)徒歩登城口(約10分)の「ヘルシーロード茶臼山文化の丘」駐車場と登城口。(中)茶臼山文化の丘に通ずる階段状の歩道。(右)歩道の途中には5ヶ所の休憩所が設けられている。

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(上)(左)二の丸跡と思います。城内には曲輪跡等の標識がなく、城内設置の城地図で判断しました。

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