このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
(左)駐車場からみる鎮守丸。左手が本丸、右に行くと二の丸・三の丸へと続く。(下)鎮守丸跡〜神社が建ち、井戸があるとのことですが、未確認です。
ちゃうすやまじょう
茶臼山城
車での登城口は、写真(左)中村橋を渡って直進し、梵鐘のある所を左折(写真中)。写真(右)この梵鐘は当地の鋳物業の昔を忍ぶことができる貴重な作品。矢掛町重要文化財。
慶長2年(1597)元清没後、茶臼山城と元清の遺領は毛利氏の総師輝元の直轄するところとなったが、関ヶ原の戦いで敗れ、毛利氏は防長二国(現山口県)へ退いた。このとき、茶臼山城は破却されたようで、その後再び城主を迎えることはなかった。城跡には、本丸・二の丸・三の丸等の遺構が残る。東麓には水堀の遺構も残っている。参考文献<山陽新聞社発行「宿場町矢掛」>
『歴 史』
備中統一の野望を抱いていた備中松山城主・三村元親は、天正2年(1574)から天正3年にかけて毛利・宇喜多連合軍に攻められ滅んだ。この戦いは「備中兵乱」と呼ばれ、三村氏の備中の遺領は戦功のあった毛利方の諸将に配分された。このとき、現在の矢掛町の大半及び真備町の西部を含む小田川中流の村々は、毛利元就の六男元清(もときよ)に与えられ、元清が猿掛城主となった。
その後、天正11年頃(1583)毛利元清が猿掛城を嫡子秀元に譲り、隠居するために茶臼山城を築いたといわれている。天正19年(1591)、諸大名に朝鮮出兵を命じた豊臣秀吉は、翌文禄元年には自ら肥前名護屋へ出陣するため大軍を率いて山陽道を西下した。このとき、秀吉は茶臼山城を宿舎にあてたと伝えられている。
●城址から望む小田川と矢掛の町並み
▽茶臼山城地図[城内説明板より]
▼三の丸跡と井戸跡
■東麓に残る堀跡
地元の人は堀池と呼び、内堀で、かっては小田川まで堀があったとのこと。
茶臼山城の遺構
(本丸等は未訪問。遺構の一部)
(左)鎮守丸にある案内説明板。(下)鎮守丸端の石垣。当時のものかどうかは不明。
写真(左)徒歩登城口(約10分)の「ヘルシーロード茶臼山文化の丘」駐車場と登城口。(中)茶臼山文化の丘に通ずる階段状の歩道。(右)歩道の途中には5ヶ所の休憩所が設けられている。
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