このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

{所在地}岡山県都窪郡早島町

歴 史(現地説明板より)】
 戸川家は家祖達安(みちやす)の父秀安(友林[ゆうりん]と号す)の代から宇喜多家に仕え、備前児島の常山城を預かるなど、宇喜多家の重臣としてその役を担ってきた。しかし、達安の代になって宇喜多家のお家騒動から達安は遠ざけられ、徳川家康に預けられた。その縁で関ケ原の合戦には東軍として参戦し数々の武勲を立て、その功によって29.000石を与えられ、備中庭瀬に居城を構えた。ここ早島は、江戸時代の初め1631年(寛永8年)に達安の次男安尤(やすもと)が3.400石で封じられて以来、安宅(やすいえ)の代まで、干拓によって開かれた豊かな土地といぐさ産業を背景に、旗本戸川家の陣屋町として発展してきた。

 さて、この陣屋は元禄年間、2代安明の代に普請にとりかかり17年の歳月を費やして1709年(宝永6年)に完成した。陣屋は敷地全体が堀と塀によって囲まれ、東西約65m、南北約120m、約7.800㎡(約2.500坪)の広さを有し、その中には役人たちが仕事をする役所や裁判を行う白洲をはじめ、道場や年貢を納める米蔵などが置かれていた。

 また、主だった家臣たちの住居も敷地内に定められ、陣屋の裏山には家祖の戸川達安を祀る達安大明神の社もあった。しかし、この陣屋も明治の初めころ取り壊され、現在ではここにある堀の一部と石橋、陣屋の飲料水として使われた井戸などを残すのみとなったが、旗本領の陣屋の遺構として貴重な史跡である。

早島戸川家の遺構

(左)「戦国時代末期の早島周辺の地形と宇喜多堤(現地説明板より)」
 宇喜多堤は、児島湾の干潟に最初に築かれた、干拓のための潮止め堤防です。堤は、ここ多聞ヵ鼻(早島町塩津)を東の起点とし、宮崎を経て、向山の岩崎(倉敷市二日市)に至る、約4.5Kmの長大なものでした。また同じく酒津(倉敷市酒津)を起点に向山に至る堤も築かれ、この二つの堤によって早島から倉敷北東部にかかる広大な大地が生み出され、そして以後400年にわたる児島湾干拓の歴史がここから始まるのでした。
(下・右この記念碑は、平成21年に開催された「宇喜多堤築堤420周年記念事業」の開催を記念して、宇喜多堤の起点を示す碑として竜神社に建設された。
(下・左)記念碑の建設された竜神社。県道倉敷妹尾線沿いに位置する。

町指定重要文化財 史跡早島戸川家陣屋井戸(平成2年3月20日指定)
 幕末の陣屋の様子を描いた陣屋絵図によるとこの井戸は現在の所有者平田家の前にあり、陣屋内の貴重な生活水として使われていたものと思われる。なお、平田家は江戸時代末期の資料には江戸詰の大目付けとしてその名が見え、代々戸川家の重臣として重責を担っていった。(現地説明板より)

伊豫札(いよざね)黒漆包革二枚胴具足〜戸川家に伝わる当世具足で江戸時代初期の作品。

伝 島左近兜忍緒〜戸川家の祖戸川達安は関ヶ原合戦で敵将石田三成の重臣島左近を討ち取ったと伝えられる。この兜の忍緒はその時、島左近が身に着けていたものと言われ、由緒書きには血痕累々とある。

[戸川家記念館] 徳川の代二百数十年にわたり、将軍直属の家臣として、江戸幕府を支えた旗本戸川家に伝わる品々を展示。

戸川家記念館(開館日/日曜・祝日)

戸川家家紋入り軒丸瓦(三本杉と梅鉢)

 江戸時代、二百数十年にわたり早島を治めた旗本戸川家。戸川家の祖である戸川達安は、宇喜多堤を築いた戦国大名宇喜多秀家の重臣として活躍したが、宇喜多家の内紛のため備前を離れ、徳川家康の計らいで関東に下った。その縁で関ヶ原の合戦では家康側の東軍として参陣し、西軍の島左近を討ち取るなどの武勲をたてた。こうした功績が認められ達安は二万九二00石余の大名として庭瀬に居城を構え、早島もその一部に含まれた。

戸川家記念館裏に位置する早島戸川家陣屋井戸(現地説明板より転載)。井戸枠の石組みや排水設備はほぼ当時のままの姿をとどめる。井戸は個人宅敷地内にあるため、外側からしか写真は撮れませんでした。土塀の奥に見える屋根が井戸の覆屋。井戸を覆う屋根の軒丸瓦には戸川の家門の梅鉢があしらわれ、当時の陣屋の面影を今日に伝える貴重な遺構である、

宇喜多堤の跡地の町並み
宇喜多堤はやがて金毘羅往来へと姿を変え、現在は県道倉敷妹尾線(いかしの舎付近)となっている。

市場園前の県道倉敷妹尾線

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※「早島町都市計画図」の黄色で囲まれた部分は陣屋の範囲(想定)。水色のL形は堀が築かれていたと想定される部分。右の「戸川陣屋絵図」と比べてみて下さい。なお、現在地の場所は、現在(2012年12月)、トマト銀行早島支店が建つ西隣となります。

▲早島公園▼

宇喜多堤(うきたつつみ)

【周辺図】現地案内板に一部加筆

関ヶ原参陣の戸川達安

旗本戸川家陣屋 いま むかし

●戸川家陣屋跡〜JR早島駅から県道倉敷妹尾線(152号)へ。交差点<松尾坂>を左折。早島小学校の西隣。早島駅より徒歩12分。
●宇喜多堤起点〜JR早島駅から県道倉敷妹尾線(152号)へ。交差点<松尾坂>を右折。岡山方面へ。早島駅より徒歩10分。

            宇喜多堤と早島  天正十二年(一五八四)から十三年にかけ、早島の眼前に広がる児島湾の干潟に塩津多聞が鼻(現・竜神社)を起点に宮崎を経て、倉敷向山の岩崎に至る一本の汐止めの堤が築かれた。 岡山の戦国大名宇喜多秀家の命を受け、岡豊前守、千原九右衛門によって築かれたこの堤は、同時 期に倉敷酒津から向山にむけ築かれた堤とともに宇喜多堤と呼ばれた。  この二つの堤により、児島湾の海水と高梁川の川水の浸入を防ぎ、早島から倉敷北東部にかけて 安定した大地が創出され、この大地を潤す八ヶ郷用水の開削によって、広大な大地は実りの地へと 変わっていった。やがて堤は、一筋の道に姿を変えその一部は金毘羅往来として多くの旅人でにぎわった。  宇喜多堤の築堤は、その後人々の干潟開墾に対する意欲を高め、その思いは江戸時代の大規模な 新田開発へとつながり、明治、大正を経て昭和三十四年の児島湾締切り堤防の完成まで、約四〇〇 年にわたり受け継がれていった。  宇喜多堤の築堤は、四〇〇年にわたる児島湾干拓事業の先がけであり、早島はもとより備南地 域発展の起点として岡山県南の歴史上特筆すべき事業であった。 (現地説明板より)

唯一残る
「石橋と堀」の一部

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