このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 といし
砥石城  (瀬戸内市邑久町豊原)

 砥石城本丸跡
戦国時代の宇喜多氏ゆかりの山城。城の経緯や築城期は定かではありませんが、江戸時代の記録『備前軍記』には、大永年間(1521〜1528)、備前守護代浦上村宗の家臣宇喜多和泉守能家が築城したと書かれている。宇喜多久家の子能家は、邑久郡(現在は瀬戸内市邑久町)に住み、浦上村宗に、のち二男宗景に仕えた。<城内説明案内板より>

◆本丸に至る登城道。比較的ゆるやかな登り易い坂道が本丸まで続きます。

▼本丸よりみる千町平野。千町川が流れ、北側に岡山ブルーラインが東西に通じている。

▼本丸跡に残る石垣の一部と、高取山城跡方面を望む。

{写真は、城内説明案内板より転載}

◆砥石城本丸跡

 砥石城の縄張
砥石城は、千町平野に向かって北に延びる標高100mの砥石山尾根上に築かれた山城。縄張は、五連郭の本城(半島状に延びた尾根頂部の稜線に沿う長方形の本丸・本丸の先端にある三段の曲輪・本丸の後方にある一段の出曲輪)と堀切を構えた四郭の出城(本城から谷を隔てた西隣の峰の中心にある出丸・出丸の先端にある三段の小郭)で構成されています。このことから砥石城は、単純な連郭式小山城が二組で一つの城郭を構成しているようです。本丸の石垣状況からみて、主要部は瓦葺き建築物や柵板塀が主体となる中世的な山城であったと考えられます。<城内説明案内板より>

 千町川に架かる千町大橋より望む砥石城跡全景
砥石城主宇喜多能家は、天文3年(1534)6月、高取山城主島村豊後守の夜討ちによって自害し落城した。主君浦上宗景はこの城を島村氏に与えず、浮田大和守に与えた。しかし、天文16年(1547)乙子城主となった能家の孫宇喜多直家は、主君宗景の軍勢と合して、備中三村氏に内通した砥石城主浮田大和守を攻め落とし、城主に舎弟の浮田春家を任じた。その後、直家は主君浦上氏を倒し戦国大名として岡山城主となる。春家は、直家の居城であった亀山城(沼城)の城主となり、武将に砥石城を守らせた。<城内説明案内板より>

■県道神崎邑久線沿いに登り口があります。千町大橋を渡って南へまっすぐ行った突き当りです。
◆231号線(県道神崎邑久線)沿いのバス停大橋の近くにある砥石城入口。ここから本丸まで徒歩で約20分です。

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