このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
▼ 北堀(内堀)と戌亥(いぬい)三重櫓跡の石垣 かつて幅100mもあった内堀は、旧西之丸と本丸を残して埋められた。戌亥三重櫓跡の石垣が築かれている所が本丸跡 |
【史跡区分】三重県指定史跡(平成17年3月25日)【所在地】三重県津市丸の内【城地】平城【別名】安濃津(あのつ)城。高虎入城後は、津城とよばれた。 (訪城日)2017年5月再訪問 【歴 史】津城は、織田信長の弟信包(のぶかね)によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきたとき、長野氏の養子に入ったものである。天正8年(1580)には五層の天守閣が完成し、当時柳山付近が中心であった津の町から町屋や寺院が移され城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ケ原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城・城下町とも戦火を受けた。 慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、城に大改修を加え城下町を整備した。本丸を広げ、石垣を高くして北側の石垣に角櫓を築き、堀も整備したが、天守閣は再建されなかった。津城は典型的な平城で、堀が「回」の字形に二重に巡っている輪郭式または囲郭式といわれる形の城である。城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町屋が置かれた。町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、町の発展を図った。また、堀川を掘り、東側の守りとしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。さらに堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合に備えた(文と下写真は現地説明板より) |
◎藤堂高虎(1556~1630) 弘治2年(1556)、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)に生まれた。15才の時、浅井氏に仕え、姉川合戦で初陣を飾って以来各地を転戦し、天正4(1576)年21才で長浜城主木下秀長(豊臣秀長)に300石で召し抱えられ、天正13(1585)年には紀州粉川(和歌山県粉河町)ではじめて1万石の大名となった。その後豊臣秀吉の下で伊予宇和島(愛媛県宇和島市)7万石となり、2度の朝鮮出兵にも参加した。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、関ケ原の戦いの時には家康に味方して勝利をおさめ、伊予今治(愛媛県今治市)20万石の大名となった。 そして、慶長13(1608)年いまだ大きな勢力を誇る豊臣家を包囲する重要な地の伊勢・伊賀に22万4千石で移され、大坂の役の後に加増され32万3千余石の大大名となった。また高虎は、築城の第一人者としても名高く自身の居城として築城した板島城(宇和島城)・今治城や津城・伊賀上野城の修築、城下町形成はもちろんのこと、幕府の命で修築を行った聚楽第・膳所城・伏見城・江戸城・篠山城・丹波亀山城・大坂城・二条城と数多く手がけている。このように高虎の生涯は、戦乱に明け暮れ、また各地を奔走し席の温まる暇もないものであったが、武将らしさとともに領民への気配りや人の和を大切にした人物であったと伝えられている。 ◎織田信包(1543~1614)尾張の戦国大名・織田信秀の子で、信長の弟。永禄12(1569)年の信長による伊勢進攻後、長野氏に養子入りしたが、山中の長野城には入らずに伊勢上野城を暫くの居城とした。安濃川と岩田川に挟まれた要害の地を選んで築かれた安濃津城は天正8年(1580)頃に完成した。同じ頃、安濃津の町人を城近くの橋内地域に移住させて津の町の原形を作った(文と写真は現地説明板より) |
◆江戸時代終わり頃の津城と現在の津城◆ 三重隅櫓(再建造物) | |
【本丸】城の中で最も重要なところであるが、現在は洋風庭園になっている。南西隅の石垣が一段高くなったところに5層の天守閣があった。また天守台のやや東、石垣が切れたところには埋門があった。周囲には丑寅(うしとら)三重櫓をはじめ5つの櫓があって多聞櫓でつながっていた。 【西之丸】現在は日本庭園になっているが、昔は番所や倉庫があった。南西には玉櫓と二階門があった。門は入口が鍵の手に曲がり、いわゆる枡形門といわれるものであった。本丸との境は土橋でつながっていた。 【東之丸】現在は商工会議所や公園になっているが、かつては小さなお宮さんがあったといわれている。 【内堀】本丸、西之丸、東之丸を取り囲んでいたが、順次埋めたてられて現在は本丸と西之丸のまわりに少し残っているだけである。 【二之丸】内堀と外堀に囲まれたところで、重臣の屋敷や藩政の中心機関があった。また周囲には12の小さな櫓が築かれていた。幕末には、藩校有造館(現在NTT三重支店になっているところ)がおかれた。現在、西之丸の日本庭園の中に有造館の入徳門が移されている。 【外堀】城の内と外を区切る堀で、岩田川から水を取り入れていたため潮の満ち引きで水面が上下した。北(京口御門)・西(伊賀口御門)・南(中島口御門)に門が設けられていた。現在は全て埋められている。 ■津城は織田信包により築かれ、富田氏を経て、慶長13年(1608)に入府した藤堂高虎により城と城下が一体的に整備された。これにより、それまで海岸近くを通っていた参宮街道が城下を通るようになり、津は伊勢街道の宿場町としても大いに賑わうようになった。現在は市街地化され、内堀の一部と本丸・西之丸の石垣にその威容を残すのみであるが、かつては幅広い内堀と外堀を巡らせた大規模な城で、藤堂高虎の城づくりの完成形として評価できる(文と写真は現地説明板より) | |
◆津城の現況◆ | |
■現在の町と江戸時代の津城 □は現在残っている堀 □は現在残っている津城 ●江戸時代の縄張 ①本丸②西之丸③東之丸④内堀⑤ニ之丸⑥外堀 ●現在の遺構~本丸・西之丸・内堀の一部 A戌亥三重櫓跡 B丑寅三重櫓跡 C三重隅櫓(再建) D月見櫓跡 E玉櫓跡 F天守台 G埋門跡 | ■左地図の拡大地図 (現地説明板に追記し転載) |
三重隅櫓(模擬) 本丸東側の東黒門・東鉄門があった所に再建された3重の隅櫓。昭和33年(1958)に再建。 | 三重隅櫓そばの虎口 津城本丸の東側に位置する虎口で、外門の東黒門(ひがしくろもん)、内門の東鉄門(ひがしくろがねもん)からなる枡形であった。両門の間で通路は右に折れ、周囲には多門櫓を巡らせた厳重な構造であった。東黒門は上部を透かしとした門扉をもつ高麗門であり、東鉄門は鉄板張の門扉をもつ櫓門であった。それぞれの門内に番所を設けて通行人を監視していた。 |
本丸跡 洋風公園として整備され、見学自由。馬上の高虎像が立つ。 | 藤堂高虎の馬上像 津藩主藤堂家初代・高虎(1556~1630)は近江出身。生涯に7度主君を変え、関ヶ原の戦いでは家康に協力。名築城家としても知られ、戦国期の築城名人といえば加藤清正もその一人。清正の築いた石垣(熊本城など)は「扇の勾配」といって上部に「反り」があるのが特徴。これに対して、高虎の石垣は輪郭線が曲がっていないのが独特の造りである。 |
月見櫓跡の石垣 左奥には右写真の石垣拡張部分が残り、さらに左側は埋門跡となる。 | 本丸石垣拡張部分 本丸南側の石垣には、高虎が本丸を拡張した痕跡が残る。 |
城内側から見た埋門跡(左端の石垣が切れ目になっている部分)。天守台の東方は石垣の切れ目になっており、埋門の名がある。江戸時代には犬走りへ出る門(埋門)があった。埋門跡右の石垣は、小天守台。 | 埋門跡 城外(児童公園)から見た埋門。江戸時代、児童公園は内堀であった。 |
天守台(城外) 高山神社側から見た天守台。 | 天守台(城内) 織田信長の弟信包がここに築城した時には5重の天守が建っていたが、関ヶ原の戦いで西軍との攻防で焼失。再建されないまま明治を迎える。石積みは打込接(うちこみは)ぎで、高虎は天守台のみ修築している。 |
丑寅三重櫓跡の石垣 右方向には多門櫓を載せた石垣が続き、角には戌亥三重櫓が築かれていた。 | 戌亥三重櫓跡の石垣 藤堂高虎は入城後、城の拡張・改築を行い、本丸北に丑寅・戌亥の三重櫓を設けた。天守に代わる津城の象徴でもあった。石垣と水際には幅1m余りの犬走りがあり、高虎らしさをみせている。 |
手前が丑寅三重櫓。右奥は戌亥三重櫓。両櫓は多門櫓で連結していた。 (写真は現地説明板より転載) | 丑寅三重櫓跡側から見た、多門櫓が築かれていた本丸北側の石垣と、その右端は戌亥三重櫓跡の石垣。 |
北多門櫓跡 津城本丸の北側を守備する多門櫓である。東側(写真左端)に丑寅櫓、西側に戌亥櫓を接続し、桁行(長さ)約47間半、梁間(幅)3間という長大なものであった。内部は3間ごと16室に区画され、有事の際は防御の拠点となるほか、平時は物資の貯蔵に供されていたと考えられる。津城は同様の多門櫓で本丸のほぼ全周が囲まれており、連続的且つ堅固な防御体制であった。 | |
入徳門 文政3年(1820)、二の丸に創設された藩校有造館(ゆうぞうかん)の門。津市指定史跡。第10代藩主藤堂高兌(たかさわ)は藩士やその子弟を教育する為の藩校として、有造館を創設した。他所へ移されたのち、現在の西之丸跡に移築保存された。 | 西之丸跡 |
西之丸枡形虎口 通路左の櫓台は玉櫓跡の石垣。 | 内堀 西之丸西側の内堀と玉櫓跡の石垣。写真には写っていませんが左側には津市役所が建つ。 |
西之丸南側の内堀 西之丸を囲む石垣南にわずかに残る内堀。奥の石垣後方には天守台が位置する。 | <アクセス> 近鉄名古屋線「津新町駅」下車、徒歩15分。(駅を出て右に行き、線路を渡り赤線に沿って進む) 地域別訪問城に戻る |
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