このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

【国指定重要文化財】
旧岡山県津山中学校本館 ・ 鶴山八幡宮本殿 ・ 総社本殿
 岡山県立津山高等学校(旧岡山県津山中学校)本館

旧岡山県津山中学校本館
 この建物は、1900(明治33)年に岡山県津山中学校本館として、建てられたものである。建物は東面し、平面は正面23間(41、83m)、側面5間(9、09m)を主体とする。構造は木造2階建の洋風建築で屋根は寄棟造。壁面は下見板張りとし上げ下げ窓にルネサンス様式の窓飾をつける。基礎は煉瓦造、イギリス積である。外観は、イタリア盛期ルネサンス様式をモデルとし、調和と比例に優れ、特に、軒下・窓の構成意匠は注目に値する。内部に改修はあるが旧講堂の天井・階段・建具枠などに原形が残り、意匠と技術は高く評価される。なお、軒下・玄関・内部の階段の手すりには、シンボルマークが彫り込まれている(現地説明板より) 

本館東面。中央に塔屋、左右の屋根に小屋窓を設ける

本館の基礎部分。イギリス積の煉瓦造

正面中央1階に設置された玄関ポーチ

注目に値する軒下・窓の構成意匠

【所在地】津山市椿高下
【国重文指定年月日】平成7年12月26日
【アクセス方法】JR津山駅より徒歩20分。車で5分
【公開状況】外観のみ見学可。事前申込必要。事務室で要受付
鶴山八幡宮本殿 
 
鶴山八幡宮本殿

 本殿の構造は、桁行三間半、梁間三間二尺二寸、一重、入母屋造、妻入、桧皮葺で大軒に千木、勝男木をのせ、軒は二重懸錘で廻縁があり、料栱間に彫刻入りの蟇股がみうけられるものである。創建当時には彩色が施されていたが、現在では薄れてしまっている。しかしながら、三手先の組み物から軒まわりの華麗さは他に例をみないもので、美作地域によくみられる中山造の社殿を構成しているもので、江戸初期の神社建築として貴重なものである(現地説明板より)

 鶴山八幡神社は、もと鶴山(現津山城跡)にあったものであるが慶長8年(1603)に森忠政が美作守として作州に入府し、同地を城地に選定したことから、慶長10年(1605)同社を城南覗山(市内八出)に移し、さらに慶長13年(1610)に現在地に移して社殿を造営したものである。その後、寛永12年(1635)及び寛文9年(1669)には、森家2代藩主長継により修理がなされている。社殿の構成は、本殿、拝殿、釣殿、神供所からなる(現地案内板より)
【所在地】津山市山北
【国重文指定年月日】昭和55年5月31日 
【アクセス】JR津山駅から車で約6分
【公開状況】外観のみ見学可

本殿(西面)


本殿(南面)

拝殿(県指定重要文化財・昭和31年4月1日指定)。左後方は本殿

 総社本殿
 
単層、こけら葺きの総社本殿

【美作総社宮の由緒】
■美作総社宮は社記に欽明天皇の25年(およそ1400年前)大巳貴命(おおなむちのみこと)(大国主命)を字本舘(ほんだて)に(西方およそ1キロ)にお祀りしたのがはじまりと伝えられた。和銅6年(西暦713年)備前国から6郡を割いてはじめて美作国が置かれその翌年国府がこの里に開府されました。その後美作の国司が社殿をいまの社地亀甲山に移して大巳貴命を主祭神として一宮(中山神社)二宮(高野神社)の両大社をはじめ美作国65郷の総べての社祇を合祀して総社宮となづけてそのみちおよそ5百年間歴代の国司はみなこのご神意を奉じて国内の政治を執り行いました。その後鎌倉時代になって国府がすたれたあともこの社は美作三大社の一つとして広く士民より崇祈され近世のはじめ美作国主森氏は多くの神領を寄進しのちの松平氏もまた祭祈料を奉納し明治維新後は県社に列せられました。
■現在の本殿は永禄12年(西暦1569)に毛利元就が造営したものでのち明暦3年(西暦1657)に国主森長継が大修理を加え近くは昭和7年に国と氏子の崇敬者一同の協力によって解体修理が行われました。この社殿の造りは入母屋妻入の独特な様式をもち規模、豪壮で華麗な彫刻を総社宮に配置した桃山時代の代表的なすぐれた建造物で全国の総社宮のうちで当社のみが大正3年国宝に、現在は国の重要文化財に指定されています(現地説明板より)

鳥居。参道の後方は拝殿
【所在地】津山市総社
【国重文指定年月日】大正3年4月17日
【アクセス】JR津山駅から車10分
【公開状況】外観のみ見学可


拝殿(右手前)と本殿

本殿(南面)
側面には廻縁。二重基壇の亀腹の上に建つ


本殿
向拝の唐破風。その上に千鳥破風を置く
  
(現地案内板に一部追記)


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