このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

ヘリテ—ジング100選 津山洋学資料館
ヘリテ—ジング100選とは、毎日新聞社が創刊135年を記念して行った周年事業
ヘリテ—ジングとは、明治から大正、昭和初期に至るまでの、戦前の日本の近代遺産を楽しむ観光レジャ—のこと
箕作阮甫先生銅像
寛政11年(1799)津山西新町に生まれる。江戸に出て宇田川榛斎に従い志を蘭学に立てて医学を究め、進んで広く語学、地理、歴史、地学、兵学、造船、兵器等にわたり研鑽をかさね、その翻訳著述は200巻にも及んだ。また蕃書調所、開成所の教授となり、種痘館創設を首唱して医学所設立のみちを開くなど後進の啓発育成に尽し、著述と相まつて我が国近代科学の開発興隆の基を拓いた。更には幕末困難な外交折衝の間その機務に参画して功績をのこし、文久3年(1863)江戸湯島で没した。
宇田川玄随先生銅像
宝暦5年(1755)江戸鍛冶橋津山藩邸に生まれる。杉田玄白、前野良沢、大槻玄沢らと交わり、蘭学を志す。寛政5年(1793)オランダ人内科医ヨハネス・デ・ゴルテルの西洋内科書を翻訳し、それを「西説内科撰要」として刊行した。これにより我が国近代内科学の礎となり、また、津山洋学の始祖ともなった。寛政9年(1797)江戸茅場町で没す。
 有名な医学書「解体新書」に始まる江戸蘭学の夜明けをわかりやすく紹介した資料館。津山が輩出した学者や、幕末の藩医箕作阮甫(みつくりげんぽ)の偉業を中心に構成。初めての解剖“腑分け”に驚く当時の様子や、木製の人骨模型、今も使われる医学用語の誕生秘話などを、激動の時代背景とともに展示。前庭には代表的な津山の洋学者の銅像が並ぶ。前庭後方の白い建物は洋学に関係する図書を集めている図書室。さらにその後方が津山洋学資料館。
◆洋学とは・・・それは江戸時代に西洋からもたらされた進んだ学問の総称。洋学とは「西洋の学問」という意味ですが、「蘭学」といった方が分かりやすいかも知れません。オランダ(和蘭)語を使って研究する学問ですから、始まったころは「蘭学」と呼ばれていました。しかし、その研究の中身はオランダだけではなく、西洋の社会全体が生み出した、進んだ科学知識なのです。「解体新書」も元はドイツの医学書で、オランダ語に翻訳されたものをもとに、日本語に翻訳したのです。江戸時代の日本は鎖国をしており、西洋諸国のうちで交流のあったのはオランダだけでしたので、オランダ語を通してしか西洋の学術に触れることができなかったのです。しかし、幕末に開国してからは、オランダ語以外の英語・フランス語といったいろいろな西洋のことばが入ってきて、日本でもそのことばを使った研究が始まりました。そこで、西洋諸国の学問という意味で「洋学」と呼ばれるようになったのです。

◆また、この時代は西洋諸国が植民地を求めて、アジアに進出して来ようとしていたときでもありました。そのため、植民地政策に対する危機感から、洋学の中身はしだいに医学などの自然科学中心から、応用科学・社会科学へと広がっていったのです。そのような状況のもと、幕府が倒れて明治になり、日本の新しい時代が幕を開けました。津山に本格的に洋学を紹介したのは、江戸詰の津山藩医宇田川玄随(うだがわげんずい)です。彼とその跡を継いだ玄真(げんしん)・榕菴(ようあん)は、いずれも洋学研究の大家で、彼ら三代によって日本に近代科学が紹介されたといっても過言ではありません。また、津山出身の藩医で宇田川玄真に学んだ箕作阮甫は、開国を迫られた幕末期の日本を学術・教養の面から支えました。彼の子孫にも、幕末〜明治の日本を代表する優秀な人材が数多くいます。この宇田川・箕作両家の人々以外にも、たくさんの美作の洋学者たちが、さまざまな分野で活躍しています。ここに紹介しているのは、そのうちの一部分に過ぎません。 (津山洋学資料館リーフレットより)
津山洋学資料館は、津山市の城東と呼ばれる旧出雲街道沿いの「町並み保存地区」にあり、周辺には、江戸・明治・大正・昭和期の古い建物が混在して建っている(案内図は現地案内板に追記したもの)
<利用案内>開館時間/午前9時〜午後5時 休館日/月曜日(祝祭日の場合はその翌日)・祝祭日の翌日・12月27日〜1月4日 入館料/有料
 【津山洋学資料館館内】
(津山洋学資料館リ—フレットを引用し作成)
■見学順路の出発点、常設展示室入口とプロロ—グ室
 常室展示室は、プロロ—グ室、展示室[1]、榕菴コ—ナ—、展示室[2]、スポット展示・映像コ—ナ—、展示室[3]、企画展示室、復元展示室に分かれ、時代を追って津山の洋学を理解できる構成となっている。
■プロロ—グ室
 知は海より来たる

洋学の世界へ
 江戸時代、西洋の知識はオランダによって長崎・出島にもたらされ、「蘭学」が生まれました。プロロ—グでは知の入口となった出島をイメ—ジし、床には絵図を描いています。プロロ—グ室は、洋学の歴史を学ぶ出発点となる展示室です。
■展示室[1]
 人体に隠された科学への扉

江戸蘭学の夜明け
 オランダ語の解剖書を見た杉田玄白たちはその正確さに驚き、翻訳を決意します。「解体新書」は江戸蘭学の夜明けを告げ、やがて各地に蘭学者が生まれていきました。展示室[1]では「解体新書」など蘭学が始まったころの資料や、津山藩にはじめて蘭学をもたらした宇田川玄随、そしてその跡を継いだ玄真・榕菴の業績を紹介。
■展示室[2]
 世界へと開かれて行く眼

阮甫が生きた時代
 幕末には、日本は欧米諸国から開国を迫られます。津山生まれの藩医箕作阮甫は、ペリ—が持参したアメリカ合衆国大統領の親書を翻訳し、プチャ—チンが長崎に来航した際には対ロシア交渉団に随行しました。これほどの活躍をした阮甫とは、一体どのような人物だったのでしょうか。展示室[2]では阮甫の生涯と、その跡を継いだ省吾、秋坪を紹介している。
■展示室[3]
 日本の近代化と津山の洋学者

開国からやがて明治維新へ
 激動する時代の中で次第に洋学の重要性が高まっていきます。幕府や政府は海外に留学生を派遣して近代化を推進し、津山からも多くの若者が海を渡っていきました。一方郷土津山でも、洋学を学んだ医師たちが地域医療や教育に尽力します。展示室[3]では日本の近代化に貢献した津山の洋学者たちに迫ります。
■復元展示室
幕末から明治期の美作地域にある医家の調合の間(診察や薬の調合を行う部屋)を再現 

 漢方医家に生まれた子どもは、幼い頃から父を見習い、手伝いながら家業の漢方を学びました。そして、高度な医学を身につけるため、経験ゆたかな医師のもとで修行をつみました。先進的な西洋医学に関心をもつ者は、大坂や京都、江戸あるいは長崎に出て、蘭学や蘭方を学んでいます。遊学先で活躍する者もいましたが、多くは故郷に帰り、蘭方の知識を生かして漢方を基礎とした医療につくしました。また、知識人として教育活動を行うなど、地域のリ—ダ—として活躍したのでした。美作地方には、杉田玄白に学んだ岡(勝央町)の小林令助、長崎に遊学した上野田(津山市)の服部秀民、紀州(和歌山県)の華岡流外科を学んだ海田(美作市)の山田純造などの屋敷があり、薬を調合したと伝えられる部屋(かつての調合の間)が今も残されています。

【前庭に並ぶ洋学者ブロンズ像】
【津山洋学資料館案内図】
【津山洋学資料館外観と周辺】
正面玄関。鉄筋コンクリート造り平屋建ての建物。左端の白い建物は図書室
資料館前(東側)に設けられた薬草の小径。道にそってハ—ブや漢方薬の元になる植物が植えられている

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください