このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

◆武田氏三代の館跡 国指定史跡◆

 武田家家紋「武田菱
【現況・遺構を巡る】

武田氏館跡全体図(現地説明板より転載)
 別名躑躅ヶ崎館跡と呼ばれる史跡武田氏館跡は、永正16年(1519)に武田信虎によって築かれ、信玄・勝頼と武田氏三代の本拠地として使用されました。二町(200m)四方の規模を誇る主郭部は、武田氏の生活の場であると同時に領国を統治するための政庁であり、武田氏の勢力拡大に伴い、曲輪と呼ばれる堀と土塁で区画された付属施設が主郭部の周囲に増設されていきました。天正9年(1581)に武田勝頼は新府城(韮崎市)を築城し、本拠地を移転したため、武田氏館は一時機能を失います。

 しかし、翌年武田氏が滅亡すると、織田氏・徳川氏・豊臣氏によって甲斐国の統治拠点として再整備され、その後甲府城が築城されるまで使用されたと考えられます。


 大手門周辺ゾーン

  ■当地区の整備工事前に実施した発掘調査では、大手門一帯を囲むように設けられた堀や土塁、出入口の石階段などが確認され、主郭に至る土橋の正面からは、大手石塁や厩とみられる建物跡が検出された。

 同時に大手石塁の下層からは、武田氏時代の遺構である三日月堀と呼ばれる出入口を守る施設が新たに発見されるとともに、家臣や職人の屋敷とみられる区画も確認されたことから、武田氏の時代には城下町が展開していたことが明らかとなった。

 当ゾーンにおいては、様々な議論の末、遺構として最上層に残存する土塁・石塁も、館の歴史的な変遷を知る上では重要な施設であると位置づけられたため、武田氏滅亡後に付設された曲輪内の構造をより明確にする方針で整備を行った。
(現地説明板より)

大手門跡
 
大手門周辺ゾーン側から見た大手門跡。


大手門跡から大手門周辺ゾーンを望む
 
前方に見えるのは大手石塁。

大手門周辺ゾーンから富士山を眺める

復元された大手石塁


大手門周辺ゾーン配置図(現地説明板より転載)

 <整備箇所>
  a大手石塁
  b惣堀・土塁・南側土橋
  
c北側土橋・虎口石階段
  
d厩(うまや)跡
 
 武田氏館の正面玄関にあたる大手門の東側には惣堀と土塁で囲まれた曲輪の存在が確認されています。整備前の発掘調査によって、武田氏滅亡後に築かれた石塁などとともに新たに造営された曲輪であることが明らかになりました。

 曲輪内の広場のうち上段部では、惣堀に架かる北側土橋の曲輪側から石階段が発見され、その下段に付設されている南側土橋では門礎石が確認されています。土橋から館跡へ向かって進むと、大手土橋の前に武田氏滅亡後に築かれた大手石塁が存在しています。


別の大手門周辺ゾーン配置図(現地説明板より掲載)

大手石塁と三日月堀
 武田氏館の正面玄関にあたる大手正面には、館の出入口である虎口を守るために築かれた大手石塁が存在します。石塁は、石積みの技法などから武田氏滅亡後に築かれたものと考えられます。

 また、石塁の直下からは新たに三日月堀が発見されました。三日月堀は、丸馬出しと呼ばれる館の出入口を守る施設の一部であり、内側に土塁を伴っている場合が多いようです。丸馬出は、武田氏領国内で数多く確認されていることから、武田氏が積極的に用いた施設と考えられています。
 このように、武田氏時代の遺構とその後の勢力によって築かれた遺構が重なり合って発見されています。

往時の姿に復元整備された大手石塁a

 大手石塁は、武田氏館の正門である大手門を守るために築かれた総石垣の構造物。二カ所に階段が取り付けられていることから、上部には何らかの建造物が存在したと考えられる。


惣堀北側虎口・北側土橋c
 惣堀には整備前から古道である鍛冶小路に面して南北2箇所の土橋が架けられていた。土橋は、貞享3年(1686)の古府中村絵図(武田神社蔵)に描かれているので、江戸時代前期にはすでに存在していたようである。


厩とみられる建物跡d
 平面で表示した掘立柱建物跡は、江戸時代の建築書に記された厩建物の形式と類似し、古絵図にもこの付近に「御厩」の存在を示す表記がみられることから、厩跡として推定し整備を行っている。

 武田氏館跡

 武田氏居館(躑躅ヶ崎館)跡
 この地は武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)の居館にして躑躅ヶ崎の西方にあるところから後世この別称を用いたと伝えられる。屋形一帯の濠塁・縄張りは左図の如き構成でほぼ現存し往時を偲ぶに足る。
 館の主郭は、東曲輪と中曲輪で、現在武田神社が鎮座している。祭神は、武田信玄。

 大手門跡
 武田神社の神橋と鳥居
 中曲輪から西曲輪への土橋
 西曲輪北側枡形虎口
  みその橋

 ※各曲輪配置平面想像図は現地説明板に追記し転載
   武田神社バス停は南と②の間に有り

大手門跡と土橋
 幅広い堀は土橋で渡る。


大手門跡の土橋石垣
 以前、訪問時、撮った写真です。

「大手門跡」土橋横の濠


「大手門跡」の土塁と石垣

館内から見た「大手門跡」付近の土塁


「東曲輪」東側の館内を囲む土塁
 
周囲には、高くて堅固な土塁が巡る。


武田神社の神橋と鳥居
 武田神社の正面である神橋が架かる南側は、本来虎口は設けられておらず、現在みられる橋・石垣は後世のもの。

みその橋側から見た水堀
 朱色の橋は神橋。館の東・西・南の三方に水堀をめぐらしている。


武田神社境内
 武田氏館の主郭部分で、東曲輪(参道右側部分)と中曲輪(参道左側部分)に分かれていたが、曲輪を仕切る土塁は神社造営時に取り払われた。

信玄公 御使用井戸
 躑躅ヶ崎館の中心部掘られた井戸で、当時の生活を偲ばせる貴重な遺構。


姫の井戸のお水
 「姫の井戸」は躑躅ヶ崎館の内でも其の生活の中心となる場所に有り、一説によると信玄公の御息女誕生の折、産湯に使用した事に因り「姫の井戸」と名付けられたともいわれ、また「茶之湯の井戸」とも言われる。


武田水琴窟
 土中に底に小さな穴をあけたカメを埋め、そこにわずかな水を流す。水はその穴から水滴となって落ち、カメの中で反響し、琴の音にも似た澄んだ音色を地中に響かせる。一つの音文化の極致である。

天守台
 主郭の北西側隅に築かれており、立入禁止のため、その姿をうかがうことはできない。天守台は武田氏滅亡後に、徳川麾下の武将によって築かれた。

天守台付近の急崖
 中曲輪と西曲輪を隔てる空堀。天守台が位置する中曲輪北西側隅を空堀越しに西曲輪側から見る。


中曲輪から西曲輪への道
 中曲輪と西曲輪は現在土橋によって結ばれているが、かつては橋が架けられていたという。


空堀
 中曲輪と西曲輪を隔てる西側の空堀。


西曲輪の南側虎口
 虎口は、武田氏の特徴とされる枡形虎口の形態である。

みその橋
 

西曲輪南側の水堀
 前方の橋はみその橋。


西曲輪南西隅の水堀と土塁

 武田氏館跡西曲輪北側枡形虎口


西曲輪北側枡形虎口
 右写真の、下側の門跡を館内より見た様子。奥後方には、土橋、堀が位置する。現在地は、西曲輪の北側に位置し、枡形虎口と呼ばれる出入口の構造が残っている。

 
西曲輪北側枡形虎口の平面図(現地説明板より)
 図は、土塁で囲まれ、門で仕切られた広場の形が四角い枡のようになっています。2箇所の門は位置を変えて敵の侵入の勢いを削ぐ形態になっています。

 西曲輪は、武田信玄の長男であった武田義信と駿河の今川義元の娘との結婚に合わせて天文20年(1551)に新造された義信の居館。義信は謀反の罪に問われ、東光寺で自害したため、西曲輪のその後の利用は明らかになっていない。


枡形虎口南門跡
 南側の南門跡(手前側)より、北側に築かれた門跡(奥)を望む。南門は、北門に比べて土塁先端部の石垣や間口の規模が大きく、門の構造自体も違っていたと考えられる。


枡形虎口内側
 土塁で囲まれた枡形虎口と、左斜め奥は南門跡。

枡形虎口と北門(右奥)
 北門は西曲輪の外側に位置する。

北門と土橋
 石垣は、野面積みと呼ばれる自然石をそのまま積上げる技法で積まれており、背面には栗石と呼ばれる礫が使用されている。このような石垣の技法は、西日本から導入されたものであり、現在見られる石垣は、武田氏滅亡後に設けられたと考えられる。
 土橋を渡った先は、味噌曲輪・隠居曲輪となる。


土橋と北門
 西曲輪北側にある味噌曲輪側から見た、枡形虎口の土橋と北門。土橋の両側は空堀が築かれている。


土橋横の空堀
 この北側は当初から空堀であったと考えられる。

隠居曲輪
 大井夫人(信虎夫人・信玄生母)が住んだ所。


味噌曲輪
 水源地でもあった曲輪。信玄の弟、信廉の屋敷がつづいていた。


武田氏館跡西曲輪 
 2016年6月訪問時、西曲輪で発掘調査中でした。
 
<武田氏館跡へのアクセス>
 JR中央本線「甲府駅」北口よりバスで約10分。武田神社下車すぐ。
 (甲府駅北口より北へ約2,2キロメートル)

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武田氏館(たけだしやかた)躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)

【所在地】山梨県甲府市古府中町   【地形種類】平城

◆「武田氏館」は、「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正16年(1519)に石和(いさわ)からこの地に、館を移したことから始まります。その後、信玄・勝頼と、武田家当主の館として使われました。そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約70年にわたり、この館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。

 館は、一辺が約200mの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。館の回りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていました。この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠として、第一級の規模と質を誇るものです。

▲武田神社バス停から望む、みその橋から神橋(朱色の橋)にいたる武田氏館跡南側の様子。城跡は現在、武田神社となっており、堀・土塁・曲輪・虎口などの遺構が残る(写真は合成)

▲武田信玄銅像(甲府駅前)

▲「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」

[風林火山の旗]の下、戦国最強の軍団を率いた甲斐の虎・信玄は甲斐から信濃へと奔った。
彼が抱いた天下統一の夢は、病により幻に終わった。

疾如風(はやきことかぜのごとく)     徐如林(しずかなることはやしのごとし)
侵掠如火しんりゃくすることひのごとく)   不動如山(うごかざることやまのごとし)

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