| このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
| 上田城 | |
| 【所在地】 | ■長野県上田市二の丸![]() ■アクセス〜JR長野新幹線「上田駅」、しなの鉄道「上田駅」下車、徒歩約10分■訪問日〜2016年3月 |
| 【築城者】 【築城年】 | ■築城者〜真田昌幸 ■築城年〜天正11年(1583年) 上田駅「お城口」出口前の真田幸村(昌幸次男)公像 |
| 【地 形】 | ■千曲川の分流の尼ヶ淵(あまがふち)の河岸段丘上に築かれた平城![]() 尼ヶ淵から望む西櫓(左)と南櫓(右) |
| 【種 別】 | ■国指定史跡(昭和9年12月28日) |
| 【復 元】 | ■本丸東虎口櫓門復元・二の丸北虎口石垣復元・本丸西虎口石垣修復・南櫓下石垣修復 |
| 【歴 史】 | 上田城は、真田幸村の父、真田昌幸によって天正十三年(1585)には、一応の完成をみたものと考えられている。この上田城はまもなく、天下にその名を知られるようになった。それは、この上田城に拠った真田氏が、二度にわたって徳川太軍の攻撃をうけ、みごとにそれを撃退してしまったからである。最初の合戦は天正十三年に行われた。攻め寄せた徳川勢は七千人余、迎え撃つ真田勢は二千人弱であった。しかし、真田氏の巧妙な戦術によって、徳川軍は思わぬ大敗となり、死者を千三百人余も出した。これに対し、真田方の死者は四十人ほどであったという。二度目の戦いは、慶長五年(1600)の関ケ原合戦に際してのものであった。関ケ原へ向かう途中、上田へ押し寄せた徳川秀忠軍は、三万八千人という大軍。これに対し、昌幸、幸村父子の率いる上田城兵はわずか二千五百人ほどであった。しかし、このときも徳川勢は上田城を攻めあぐね、この地に数日間も釘付けにされただけに終わり、関ケ原での決戦に遅れるという大失態を演ずることになる。 上田城は、いわば地方の小城であった。石垣も少なく、一見したところ要害堅固な城とも見えない。しかし実際は周囲の河川や城下町を含めた全体が、きわめて優れた構造となっていたことが現在、学術的研究によって明らかになっている。全国に数多い近世城郭のなかで、二度も実践を経験し、しかも常にこのような輝かしい戦果をあげた城は、ほかに見ることはできない。上田城はその後、徳川軍の手で破却されたが、真田氏にかわって上田城に入った仙石氏によって復興された。寛永三年(1626)、この時復興された上田城は、真田氏時代そのままであったとみてよく、仙石氏の後、松平氏の世となってもほとんど変化はなかった。廃藩置県後、明治七年、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。この時、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎は、明治十二年、松平神社(現 真田神社)創建にあたり本丸南側の土地を遊園地用として寄付した。これが上田城跡の公園化への第一歩となった。現在三の丸地域は改変しているが、本丸・二の丸には土塁、堀跡などがあり、かつ本丸の三基の隅櫓は昔の姿を止めている(現地説明板より) |

▲本丸東虎口櫓門(中央)と南櫓(左)・北櫓(右)



▲真田石
石垣の巨石は、真田石と呼ばれる城内最大の石で、本丸東虎口櫓門の右手にある。
▲北櫓
北櫓と南櫓は、1874年(明治7)に廃城後、民間に払い下げられた。上田城には、合計7基の櫓があったものの、当時の名称は不明で、方位による名称は、戦後に再移転されたのちに付けられた。
▲南櫓
北櫓、南櫓は1641年(寛永18)に建造。南櫓と北櫓は明治年間に上田遊郭に払い下げられていたものを昭和18年(1943)から昭和24年(1949)にかけて再移築したもの。
▲東虎口櫓門
平成6年(1994年)に再建された本丸入口の門で、この門の両側に南北二つの櫓が建つ。
▲本丸堀と、左より南櫓・東虎口櫓門・北櫓


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