上田城跡 散策 |
(現地説明板に加筆し転載)
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【大手門跡〜上田藩主居館跡】
(現地説明板に加筆し転載) |
大手門跡
上田城は真田幸村(信繁)の父、昌幸によって天正13年(1585)に一応の完成をみたものと考えられる。現在、上田市内に多く見られる鉤の手状の街路は城下町としてのなごりをとどめているものであり、特にこの場所には大手門があった。大手門とは城の正面であり、上田城では門の枡形を構成する石垣と、その前南北に堀があっただけで城門は造られていなかったといわれている。
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上田藩主居館表門及び土塀・濠・土塁(上田市指定文化財)
上田藩主の居館は、真田氏・仙石氏・松平氏の各時代を通して、現在の長野県上田高等学校の敷地となっている場所にあり、「御屋形(おやかた)」と呼ばれていた。 |
【二の丸跡】 |
二の丸橋
この橋の下が二の丸空堀となり、橋を渡れば二の丸跡、さらに本丸へと続き、本丸東虎口櫓門が位置する。 |
二の丸空堀(東堀)
けやき並木のこの場所は上田城二の丸の堀の跡。二の丸空堀は、関ケ原合戦ののち、徳川家の手によって埋められたが、仙石氏によって再興された。その後、昭和3年に上田温電北東線が開通し、この地を電車が通っていた。昭和47年に電車が廃止され、現在に至っている。
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二の丸北虎口
(現地説明板より)
百間堀は現在陸上競技場、現在地の上は二の丸北虎口となる |
二の丸北虎口の石垣(東側から見た石垣)
石垣後方は現在、陸上競技場(かつては広大な堀であった・百間堀)。北虎口には枡形を構成する石垣が今日に伝えられる。石垣2基は平成2年及び5年に復元整備したもので、北側の石垣の西端は築造当初のものです。
平成3年度に実施した発掘調査では、櫓門の礎石が確認された。このことから、上田城主仙石忠政は二の丸北虎口にも櫓門を建造する計画だったことが分かりますが、病死により建てられることはなかった。百間堀の樋は、右側石垣の後ろに位置する。
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百間堀の樋(とい)
陸上競技場の門の付近に残る石垣には、切石を組み合わせた樋(約90㎝四方)の出口を見ることができます。これは元禄15年(1702)に木樋から石の樋に変えた時のものと考えられています。当時幕府に提出した修復願には、「木樋が腐って壊れてしまったので、石の樋に変えたい」と書かれています。
現在の陸上競技場や児童遊園地は、江戸時代には大きな堀でした。この付近はもともと矢出沢川が流れていましたが、大工事をして城の北方に流れを変え、旧河床を広げて堀を造ったと考えられます。その広大な規模から百間堀と呼ばれました。二の丸北虎口(北の出入口)の土橋には東側から西側の堀へ水を通すために、木で作った樋(導水管)を埋めてありました。
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【本 丸】 |
本丸西虎口(枡形を構成)に建つ西櫓
本丸には7棟の櫓があった。いずれも元和8年(1622)真田信之の松代転出後に上田城主となった仙石忠政が行った、寛永3年(1626)からの上田城復興工事の際に建てられた。
現在、本丸の東西虎口には隅櫓が3棟ありますが、南櫓・北櫓の2棟は、明治維新後、他所へ移築されていたものを現在地に再移築したものです。西櫓のみが寛永期の建築当初の部材を残し、外観もほぼそのままの姿を残す西櫓は全国的にも貴重な建物であり、昭和34年には南櫓・北櫓とともに長野県宝に指定された。
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本丸西虎口の石垣(本丸西虎口櫓門の礎石と石垣天端の切り欠き)
本丸には東西2個所、二の丸には3個所の虎口がありました。虎口とは、城内への敵の侵入を防ぐために城の門に枡形を造って曲げるようにした出入口のことです。
平成3年に実施した本丸西虎口の発掘調査では、櫓門の礎石及び石垣の根石等が検出されました。このことにより、本丸東虎口と同様、西虎口にも櫓門1棟があったことが分かりました。また石垣の天端には、櫓門下層最前列の冠木と、最後列の敷桁を載せるための切り欠きが残っています。 |
本丸土塁の隅欠(すみおとし)
上田城や藩主屋形(上田高校)の土塁、堀、城下の寺社の配置等には鬼門除けが見られ、真田氏の頃から設けられていたものとされる。
鬼門とは北東の方位で、鬼が出入りする方角として嫌われ、建物等の東北の角をなくして隅欠としたり、城下町の鬼門に寺社を置いた。
上田城本丸の土塁は東北の角を切りこみ、櫓2棟をその両脇に配置していた。堀や土塁の斜面が内側に凹んでいるのはその為である。
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本丸跡
本丸周囲を囲む土塁と、中央奥の角は隅櫓跡。本丸は堀と土塁に囲まれていた。 |
真田井戸
本丸の真田神社境内にあり、城内唯一の大井戸。ここから抜け穴があり、城北の太郎山麓の砦に通じていたという。 |
【尼ヶ淵】 |
尼ヶ淵から望む西櫓(左端)と南櫓(右)
南櫓後方は東虎口櫓門さらにその奥は北櫓。上田城跡駐車場や芝生広場の一帯は、江戸時代には千曲川の分流が流れていた川原で、尼ヶ淵と呼ばれています。この川は上田城を守る天然の堀の役目を果たしていましたが、大水が出ると尼ヶ淵の崖を侵食することがあり、まさに諸刃の剣でした。
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尼ヶ淵の崖
崖に見られる地層は三つです。上から①上田泥流層(火山が崩壊した土砂などが堆積したもの)、一番下には③染屋層(川の作用で砂礫が堆積したもの)、そして、この二つの層の間には、②火砕流に由来する粉じんが堆積しています。
三つの地層の中では、②の層が一番柔らかくてもろいため、大水のたびに②の層を中心に崖が削られてしまい、崖が崩れて櫓に被害が及ぶ心配がありました。そのため、上田藩主・松平忠愛は享保十八年(一七三三)から石垣を築いて、崖を侵食から守りました。尼ヶ淵の石垣のほとんどは、このように崖を守るために造られたものです。 |
南櫓下の石垣について
上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれています。中段石垣は、長雨により一部崩落したことから修復工事を実施しました。中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣が無かった部分であることから、原形に基づきモルタルで修復しました。
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尼ヶ淵と石垣
本丸南側の尼ヶ淵は崖面がもろく崩れやすい性質だったことから、築城以来崖の保護対策が講じられてきました。南・西櫓下の下段には享保の洪水(享保17年・1732)後に設置された大規模な石垣があります。
本丸東西虎口の土橋より南側の堀は、正保4年(1647)江戸幕府に提出した絵図では「空堀」と記されており、比較的早い時期、または当初から空堀だったことが分かります。ただ東虎口側の東南隅にある石垣には排水口があり、水を入れた、あるいは入れる意図があったことが分かります。排水口を城内側から見たのが右写真です。
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排水口
東虎口櫓門前の、二の丸と本丸を結ぶ石橋上から南側を見ると、石垣のなかに排水口が見える。
石垣の後方は尼ヶ淵となり、現在は上田城跡駐車場、芝生広場として活用されているい一帯。 |
尼ヶ淵(城の南側を守った天然の堀)
ここから本丸の櫓を見上げると、その守りの堅さを実感します。江戸時代にはここを千曲川の分流が流れていたのですから、さらに防備は強固なものになりました。崖の高さは約12メートルあり、上田泥流層の垂直な崖がさらに敵の侵入を難しくしました。右へ続く。 |
ところが、千曲川が増水した際に、崖を川の水が削ってしまうことから、歴代の城主はこの対応に頭を痛めました。崖面に築かれた石垣には算木積みの古い技法と考えられるものもあり、仙石氏の頃、あるいはそれ以前に築かれた石垣である可能性もあります。
そして、享保17年(1732)の大水では、ついに崖が大きく崩落してしまいました。そのため、城主・松平忠愛は崖を守るための石垣の築造を計画し、翌年から工事を始めました。享保21年、石垣は完成しますが、石材と石工の不足から当初の計画通りにはいかず、南櫓と西櫓の下を除いて、石垣は低くなったり、造られずに終わってしまいました。
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西櫓
西櫓の直下は、尼ヶ淵と称される崖となっており、要害の地であったことがわかる。 |
尼ヶ淵から望む南櫓
南櫓の左には東虎口櫓門が見える。
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