このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

▲本丸跡の一部

復元整備中の宇都宮城

[宇都宮城の歴史]
◆関東の七名城の一つとして名を馳せた宇都宮の築城に関しては、諸説があり、あまりはっきりしていません。ある伝承では、平安時代の中ごろの天慶3年(940)に平将門の乱をおさめた藤原秀郷(俵藤太)により築かれたといわれていますが推測の域を出ていません。また、康平6年(1062)に、宇都宮氏の祖である藤原宗円が築いたともいわれており、この説が一般的ではありますが、やはり確信があるわけではありません。ともかく鎌倉時代初期以降、文武両面で活躍した宇都宮氏の居城(館)から出発したようです。

◆当初はあまり規模も大きくなく200m四方であったと考えられています。後に宇都宮氏の勢力拡大や度重なる戦ごとに城が改修・拡張されていき、室町時代には城としての形態を整えました。しかし、宇都宮氏は約500年間にわたり下野一帯を支配しましたが、慶長2年(1597)、当主国綱の時代に改易され、豊臣秀吉に所領を没収され宇都宮家は滅亡しました。所領石高を偽っていたことが原因といわれています。その後の城主は、浅野長政、蒲生秀行、奥平家昌、本多正純とつづき、以後も松平・阿部・戸田氏と替わっている。江戸期に入り、徳川家康が日光の東照宮に祀られたことから、日光守護の城として重視され、特に元和5年(1619)に城主となった徳川家康の重臣・本多正純(ほんだまさずみ)は、わずか2年程の間に城の大改築、城下町割りの変更等の大工事を行い、本格的な近世城郭としての姿を作りあげました。正純による町割りは現在も市街地の随所で見ることができます。

◆宇都宮城には本多正純のいた元和年間(1615〜1623)までは、天守閣があったと伝えられています。その後享保年間(1716〜1735)には、本丸の広さ、4058坪余(約1万3千㎡)もあり、その中に385坪余(約1270㎡)の御殿があったと伝えられている。本丸は非常に高い土塁によって守られており、平らな土地に盛り上がるように造られた宇都宮城の姿は、遠くからは亀のこうらのようにも見えたため、
別名「亀ヶ丘城」とも呼ばれた(地形種類は平城)。しかし、戸田氏が再び宇都宮城主となったころ(明和7年・1770)には空地となり、藩兵(宇都宮藩の兵士)の教練に用いており、城主御殿は二の丸に移っていました。しかし、天保14年(1843)の将軍の日光社参の際には、本丸に将軍宿泊の新居が建築されたこともありました。御本丸をとりかこむようにしてあった土塁の口には、東に3ヶ所、西に2ヶ所の櫓があり、特に北西角の清明台櫓が天守閣のかわりにされていたようです。これらの櫓は慶応4年(1868)の戊辰戦争の時火にあいすべて焼け落ちてしまいました。明治時代に入ってからは、陸軍の第四分営の宇都宮分営が駐屯したりしましたが、だんだんと堀は埋められ、土塁はくずされてしまい、御本丸の一部のみが公園となって今日に至っています。(現地資料より)

▼「宇都宮城本丸将軍家御泊城ノ節建物ノ図」(宇都宮市指定有形文化財)

▼宇都宮城跡の大規模な堀と掘立柱建物跡写真

▼宇都宮の城下模型

 この絵図は、宇都宮城本丸に建てられた御成御殿(おなりごでん)を描いたものです。

 将軍の日光社参は江戸時代を通じて16回実施されています。往復の途上には宇都宮城に宿泊することが多く、そのため、江戸時代の初めのころ、本丸内には御成御殿が建てられました。

 この絵図には、その御殿の間取りが克明に描かれているほか、土塁・堀・門・櫓および樹木にいたるまで記されています。

 御成御殿の現存する数少ない図面の一つとして、また、宇都宮城本丸の詳細な資料として貴重なものです。
■北側の門=清水門 
■南側の門=伊賀門
■西側の櫓=清明台・富士見櫓
■東側の櫓=北櫓・東櫓・辰巳櫓


 ここは、近世宇都宮城の本丸があったところです。宇都宮城址公園は、歴史資料や発掘調査結果に基づいた本丸の一部復元、中心市街地の活性化の拠点づくり、防災の拠点づくりを3つの柱として整備したもので、復元した土塁や堀、櫓、土塀は、江戸時代中期の姿を現代によみがえらせたものです。

 宇都宮城のはじまりは、平安時代の後期に築かれた館(やかた)だといわれています。中世には宇都宮氏が500年にわたって城主をつとめ、戦乱の世を乗り切っています。江戸時代には譜代大名の居城として威容を誇りました。また、釣天井伝説の舞台、関東七名城の一つとしても有名です。
(現地説明板より)

▼宇都宮城址公園案内図


 復元されたのは、清明台と富士見櫓の二つの櫓と、この二つの櫓を結ぶ土塀。および清明台から富士見櫓にかけての土塁と堀が復元。
 復元にあたっては、絵図面などの資料調査や発掘調査の結果を基に検討された。復元する時代は、資料が多く残っており、本丸御殿などが存在していた江戸時代の中頃とし、資料で明確に分からない部分については、宇都宮城と同様に徳川幕府の関与が強かった大阪城や二条城、小田原城などの実例を参考に復元。
 また、現代の法令、工法や建築物の安全性、利便性、そして宇都宮城址公園への導入機能を考慮した結果、史実と異なる部分があるとの事です。
 今回、2度目の訪問(2010年3月)ですが、絵図などと照らし合わせてみて、当時の宇都宮城本丸部分を充分にイメージすることができます。

(現地説明板より)

土橋の石垣跡
 この場所は、上記の{発掘調査で確認された堀・土塁などの位置}説明板に標示されている「伊賀門」の下右端「堀」の場所。

別角度から見た「土橋の石垣跡」

「土橋の石垣跡」説明板

(現地説明板より)

上記の{宇都宮城址公園施設の名付け親}説明板の「みどりの小径」場所から見た復元された宇都宮城(左端=清明台、右端=富士見櫓)

 「みどりの小径」は近世宇都宮城二の丸跡で、土塁・堀が発掘調査で確認されている。路面の左右に延びた二つの線は、土塁・堀の位置・規模を地面に表示したもの。

○印のところが、現在では左写真の位置
 二の丸は城主の御殿があった場所で、ここで日常生活や政務が行なわれていた。


「二の丸土塁・堀跡」発掘調査の様子
 土塁は、少しずつ土を積んではたたきしめ、強固な土塁を築いた様子が確認された。

やぐら模型
 地形(ぢぎょう・地固め)に使用したもの。

▼二の丸広場から望むよみがえった宇都宮城


清明台(左)と富士見櫓(右)
 二つの櫓と土塀は木造で復元。

▼おほり橋と外観復元された土塁・堀


 復元された宇都宮城本丸の堀は、17世紀前半に掘られたものと考えられている。古い文献には幅12間(21・8m)と記されている。発掘調査では、堀は最大で幅27m、深さは最大で7mあったことが確認されている。
 土塁上の櫓は、富士見櫓。おほり橋を渡ったところの土塁の内部(一部分)は、「宇都宮ものしり館」「まちあるき情報館」となっている

▼富士見櫓側からみた復元部分

富士見櫓(手前)と、左奥は、おほり橋と清明台

▼清水門跡からみた復元城内部分

[P]標識のたつ位置の右側が清水門跡
 左端の土塁上の櫓が富士見櫓、右が清明台。紅白のテントが設営されている場所は御本丸広場。訪問した時は、「宇都宮城さくらまつり」開催当日の早朝だったためこのような状況でした。


清水門は宇都宮城本丸正面の出入口

日光社参の時、将軍もこの門を通って御成御殿に向った
▼宇都宮城本丸南側の出入口は伊賀門となる

伊賀門(Igaーmon)跡

清水門とほぼ同じ規模・構造になっている。

城址公園二の丸に立つ「武者のぼり」


石垣屋外陳列

大いちょう
 宇都宮城の三の丸と百間堀の境の土塁の上にあり、宇都宮城ゆかりの名木。
▼宇都宮市街地図



[交通]JR宇都宮駅から宇都宮城まで徒歩約15分
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天守閣の役目をしていた清明台櫓(せいめいだいやぐら)の復元工事

本丸内は天保14年(1843)他は幕末慶応期(1865〜67)の絵図を基本にしたが、「幕末宇都宮城下復元図」や延明院(泉町)の絵図等も参考にして製作した。なお、城下に隣接する村落は、当時の様子を想定したものである。

▼宇都宮城本丸摸型

▼本丸に建つ清明館<宇都宮城関係の資料が展示されている>

堀の復元工事の様子(写真左・右)。幅は20m以上、深さは6m以上あるとのこと

土塁、土塀、富士見櫓(右端)の復元工事

〔2006年4月訪問時、城は城址公園として復元整備中でした〕

二つの櫓と土塀・土塁・堀が再現 2007年3月完成
よみがえった宇都宮城

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