このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国指定史跡
若桜鬼ヶ城跡(わかさおにがじょうあと)
(指定年月日・平成20年3月28日)

二の丸跡から本丸廊下橋虎口を望む 
【所在地】鳥取県八頭郡若桜町若桜
【城地種類】山城(標高452m/比高252m)。若桜の中心街の南側にそびえる鶴尾山(つるのおやま)一帯に築かれた中近世城郭。城は標高452mの鶴尾山山頂に築かれた詰城部(主郭部)と、その北西部に派生する尾根上に構えられた古城部からなる。
         
         (若桜鬼ヶ城遠景。若桜駅前から撮影)

【若桜鬼ヶ城の概要】
■若桜鬼ヶ城跡は播磨、但馬へつながる交通の要衝にあたる。そのため、戦国時代において毛利対尼子、毛利対織田などによる争奪戦が繰り広げられた。築城時期は不明だが、延徳元年(1489)には「矢部館若桜」の記述があり、矢部氏によってこの頃には城が築かれていた可能性が考えられる。一時山中鹿之助による尼子氏再興戦の舞台ともなった。その後、羽柴秀吉による鳥取城攻めの際には織田方の拠点として機能し、天正9年(1581)に鳥取城が落城した後は秀吉の武将木下重堅、関ケ原の戦後の慶長6年(1601)には山崎家盛が入場している。元和3年(1617)に池田光政が因伯2国を領す鳥取城主となると、一国一城令により廃城となった。

 城郭の遺構は大きく二群に分けられる。山頂部から南北に延びる尾根の中腹から先端部にかけては堀切、竪堀が見られ、小規模な曲輪群が構築されている。また山頂付近には、この付近でとれる石材を用いた石垣によって、虎口や天守台等が築かれている。その構造から前者は戦国時代の山城の遺構で、後者は近世初頭になって新たな築城技術で構築されたと考えられる。

 本丸の西側などかなりの石垣が崩れているが、これは廃城の際に意図的に壊されたものである。中世から近世にかけて城郭構造の変遷を窺うことのできる城として学術的な価値が高いだけでなく、そうした破城の状況を今に留めているものとして重要である。
(文は現地説明板より。縄張図は現地説明板に一部追記し引用)
<若桜駅より登城口までのアクセス>
 若桜駅(写真上)より、市街図(写真左・現地案内板に追記し引用)の観光案内所前を通り、八幡広場を目指します。徒歩で5分もあれば着きます。案内標識も設置されているのですぐ分かります。
(写真下左)八幡広場と登城口。八幡広場の山側に登城口があります。登城口は他にも、自動車ルート、第1町民体育館裏などのルートがありますが八幡広場から登城しました。このルートは、途中で古城部・六角石垣を見ることができます。登城所要時間は徒歩35〜40分(休憩、写真撮影は除く)
(写真下右)登城口から登るとすぐに鳥獣対策用の電気柵が設置されているので、ハンドルフックを開けて入り、入った後は、必ずフックを閉めて入城となります。  <訪城日:平成28年11月>
 若桜鬼ヶ城跡 / 現況

曲輪・石垣・枡形虎口・土塁・堀切・天守台などの遺構が残る
(現地説明板より)
 
山腹遺構(古城部)

土塁による造成の戦国時代の山城遺構。堀切、竪堀が見られ小規模な曲輪群が構築されている。

古城地区の展望所(右写真の現在地)
 この地区一帯は通称「古(小)城」とよばれており、一説では築城当初に城郭の主要部分として整備され、山頂遺構が築かれた後も主郭部を守る重要な拠点として機能していたと考えられています。

 縄張を見ると、大小の郭に土塁や堀切などが重層的に築かれており、防備の高さと中世城郭としての若桜鬼ヶ城の姿を垣間見ることができます。若桜鬼ヶ城の築かれた鶴尾山(つるのおやま)の各尾根沿いには中小規模な郭が数多く築かれており、中世から近世期にかけての城郭変遷がよく分かる好例といえます。(説明板より)
 
(説明板より転載。下側が山頂方向)

 六角石垣
主郭部は天守・本丸・二の丸・三の丸・ホウヅキ段・六角石垣などから構成。
近世初頭になって新たな築城技術によって構築されたと考えられる。

 本地点は鶴尾山の山頂から北西方面の登城路沿いに築かれており、郭の形状から六角石垣(もしくは「六角石崖」)と呼ばれています。
 当時の利用方法は不明ですが、立地等から山頂部を守るための拠点や敵を監視する物件だったと考えられます。


 六角石垣の石垣は積み方から山頂遺構より古い時代に構築されたと考えられ、石垣が破壊されず、ほぼ完存した姿で残されています。

三の丸
 
▲三の丸虎口の様子
本地点は山頂遺構の北端に位置しており、三の丸もしくは広場と呼ばれて
います。「枡形」と呼ばれる三の丸虎口(郭の入口)は三の丸南東に位置する。
  三の丸虎口の枡形は左写真のように石垣等で四方を囲み、攻めてくる敵を矢印のように応戦することで、防備を固くする方法の一つです。

 ここからは眼下に若桜の中心街と鳥取方面の街道を確認することができます。木下・山崎両氏は城下町の発展にも大きく寄与し、街道の整備や治水事業、侍・町人・寺社ごとの集住など、大規模な修築を行ったと考えられています。現在も若桜の中心街には当時の街道筋や古い地名、八東川の治水を行った「百間石垣」など、城下町の遺構が各所に残されています。
(左写真は説明板より転載)

二段石垣
 三の丸虎口(左側の石垣)脇に位置する。石垣の間の通路を奥に進むと、右写真の登城道へと続く。


三の丸の急崖
 ここの登城道より山上の三の丸まで約90m。なお、この登城道は第1町民体育館裏の登山口に至ります。


 二の丸

本丸西側の枡形虎口から見た二の丸跡(東屋の建つ所)
 六角石垣から山頂を目指して登ると、本丸手前に枡形虎口が築かれており、ここから、二の丸へと進み本丸に行くことができます。通路の右側には本丸で、破壊された石垣がそのまま残っている。


本丸跡から望む二の丸跡
 城碑と東屋が建ち、右奥の一段下がった所に三の丸が位置する。
 
若桜鬼ヶ城跡から出土した陶磁器類
 昭和63年度から平成2年度にかけて山頂遺構の把握と試掘調査を行い、木下・山崎両氏の家紋入りの瓦や陶磁器など多くの遺物が出土した。
 天目茶碗や染付、土器などが出土し、山頂で生活していた様子がうかがえる。

 
出土した瓦類
 完存したものは少ないですが、丸瓦・平瓦・鯱瓦ともに多数出土。写真は説明板より転載したものです(左写真も同じ)
 
本丸

本丸石垣

本丸跡と天守台


二の丸側から見た廊下橋虎口
 二の丸から本丸へ通じる出入口。


天守台(手前)から見た本丸跡
 
天守台
 本丸南側に築かれた天守台。どのような建物が築かれたかは不明。試掘調査により、山崎氏の檜扇紋入りの軒平瓦や鯱瓦の胴部などが発掘されています。

天守跡

ホウヅキ段
 本丸南側のホウヅキ段を天守台越しに望む。


ホウヅキ段石垣と犬走
 犬走りを奥に行くと馬場跡へと至る。左上が本丸跡。


馬場側から見るホウヅキ段石垣
『行き止まり虎口』について
 入口はあっても出口がない特異な虎口。現在は、見ることができない。

天守台の左側、○印辺り(本丸東側)に築かれていますが、残念ですが現在は、保存の為に埋め戻されています。
 行き止まり虎口
 学術調査で「行き止まり虎口」の遺構が確認されている。
本丸上から確認すると、この辺りに、行き止まり虎口があると思います。本丸東側の犬走りは、立入禁止なので上からしか確認することができません。


枡形虎口 
 本丸周辺平面図

(説明板に一部追記し引用)
 
▲本丸周辺図Aの枡形虎口
虎口通路などに崩された石垣が残り、雑草に覆われた状態になっている。

二の丸側からの枡形虎口跡(A)・搦手門(B)跡と破壊された石垣
 廃城の際は石垣が人為的に崩された状態(写真左側の石垣)で残されており、一国一城令による破壊の歴史を物語っています。


枡形虎口(A)から見た搦手門石垣(B)
 通路を奥に向かって左に曲がっていくと馬場に至る。


 馬場
馬場跡と鬼ヶ城付近まで車で登るコース
(ホウヅキ段まで馬場から徒歩10分)
 
(案内板に一部追記し引用)

堀切
 
馬場跡からホウヅキ段に向かう途中に残る堀切。

馬場跡
 左写真の堀切は、上写真の奥に建つ説明板より、ホウヅキ段石垣に向かう途中に築かれています。車は、この辺りまで来ることができます。

三の丸からは眼下に若桜の中心街が確認できる

【登城の際の注意点】
●登山道は一部勾配の急な箇所や段差の大きな箇所があり、足元に注意して登城。クマやシカなど野生の鳥獣に注意。城跡内にはトイレがないので、あらかじめトイレを済ませて登城。冬期は積雪で登城できない。4月以降も雪がある場合がありますので、登城の際は事前に確認。※問い合わせ先〜若桜町教育委員会
【山頂までのアクセス(若桜駅より)】
●<車の場合>
若桜駅前通り→つきあたりを右折→2区画目を左折→第2町民体育館前→城山林道→馬場駐車場。駐車場から山頂まで徒歩10分。
●<徒歩の場合>
八幡広場または第1町民体育館裏の登山口より山頂まで約35〜40分。
(現地パンフレットより)

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