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天神山城
【所在地】和気郡和気町田土・岩戸
岡山県指定文化財
▼石碑の建つ本丸跡〜天神山城(連郭式山城)の中心部で戦の場合城主の本陣となる。
▼水の手〜ここから徒歩約20分で、山頂の堀切に着きます。このルートは、馬越(ばがし)と呼ばれ、水の手より城中へ水を馬で運んだといわれている。
●天神山城址全景〜天神山(409.2m.)山頂に築かれた山城。建物は現存しないが、稜線上に細長く、1km以上にわたって多くの郭跡が残る。浦上宗景が築くが、宗景一代限りの居城。宇喜多直家に攻められ、落城した。
▼鳥瞰図⇔部分の場所。水の手登山口から、徒歩約20分登って来た所。堀切になっている
前期天神山城跡(太鼓丸城)
《天神山城跡を巡る》
▼上の写真、天石門別神社脇の状況
天神山城略年譜<城跡説明板より>
1531(享禄4) | 浦上宗景は大田原・日笠・延原・明石・岡本・服部ら6人の武将を連れ室津城(播州)を立ち大鼓丸城に移る。(天神山城完成後は東の砦となる) |
1532(天文元年) | 兄浦上政宗は、宗景を討つべく富田松山城(備前市)に布陣する。宗景も太鼓丸城より人数を出し片上の葛坂に出陣したが、戦意を喪失し相互に軍を引き上げる。 |
1533(天文2) | (第一期工事)(確立期)天津社を南西山麓に移し天石門別神社と称す。西方防備の為天津社境内に本丸を構え西に空堀を掘り二の丸を張り出し、東方に明石飛騨の屋敷、馬屋、南櫓を築き、北方防備のために広の段に築城を始める。天瀬に岡本・木村の屋敷を配し張木戸を回らし吉井川下流の警備を固め、観音山城を配し西方の守備に当たる。侍屋敷を本丸南下に配し垣上は上級武士の屋敷、垣下は下級武士団の屋敷、倉庫、馬小屋、川岸に船着場を配し、生活必需物資の確保を図る。北麓田土は赤松氏支配時多数の士豪の地で、山麓に家臣の根小屋屋敷を配す。 |
1536(天文5) | 宇喜多八郎8歳で家臣となる。 |
1539(天文8) | (第二期工事)(勢力拡張期)桜の馬場・西南端に鍛冶場・北に大手門・百貫井戸・長屋(倉庫)・腰曲輪を配し西方の中心郭となす。 |
1543(天文12) | (第三期工事)(全盛期)三の丸・西櫓台・下の段を設け西方防備の郭とした。赤松氏と播州にて戦う、宇喜多八郎初陣、鉄砲伝来。 |
1544(天文13) | 宇喜多八郎元服し直家と名乗る。宗景が300貫を与え乙子城(岡山市)主とする。 |
1549(天文18) | 浦上松之丞誕生。与次郎宗辰と名乗る。 |
1551(天文20) | 出雲尼子氏と作州合戦。 |
1561(永禄4) | 龍ノ口城・金川城攻略 |
1571(元亀2) | 織田信長より播州・備前・作州三国の所領朱印を受く。 |
1574(天正2) | 宇喜多直家離反し、毛利と和す。宗景、信長の援により毛利と戦う。 |
1575(天正3) | 信長天神山へ兵糧を送る。 |
1577(天正5) | 4月12日、日笠青山城落城。5月浦上与次郎、直家により毒殺される。8月10日天神山城落城。 |
1982(昭和57) | 岡山県指定文化財(史跡) |
天神山城跡(全盛期)
■(写真・左)南の段と後方の南櫓台。南の段は、隠曲輪で敵兵が城内に侵入してきた際に堀切の敵を上から攻撃する曲輪。(写真・下)南櫓台太鼓の丸と本丸との連絡と、城外と城内をみまもる目的がある。
▼⇔部分から、東南(右側)の拡大写真です。前期天神山城跡
▼この鳥瞰図は、上の鳥瞰図⇔部分<写真中央>から西北(左側)の拡大写真
▼城跡への登山口は数ヶ所あるが、神社そばの登山口の一つ
天神山城跡へは、田土の集落から「水の手」経由の北から登るコースで訪問。※水の手(水の本)〜天神山の北 本丸の東 水の源なり 清冷なる故 城中の人々是を飲む
▼上の配置図★の場所で、道路に案内標識が掲げられています
「太鼓丸にある遺構説明板より」
{天神山城鳥瞰図}
(天正初年頃の城郭構築物を復元的想定)
上の写真(天神山城鳥瞰図では⇔部分)にある案内標識
(写真・左)水の手(田土)へ500m
(写真・左下)太鼓の丸へ500m
(写真・下)広の段本丸へ200m
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