このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 
 歴史と文化の町〜矢掛町
 旧山陽道は平安の昔、京都と大宰府をむすぶ「大路」として整備され、江戸時代(1635年)参勤交代の制が定められたことにより、一層の発展を遂げた街道であった。矢掛町は参勤交代の頃、旧山陽道の第18番目の宿場町として栄え、産業・交通・文化の中心地として発展した。 矢掛宿には、全国唯一の本陣(石井家)・脇本陣(高草家)が共に国指定重要文化財(昭和44年6月20日指定)として旧姿を残している。
本陣(石井家住宅)
 本陣は大名・公卿等の宿泊施設である。この本陣は北向きの旧山陽道に面した家屋で、本陣屋敷をはじめ11棟の建物があり、この町随一の規模である。御成門・玄関・帳場・一段高い上段の間が整備され、その当時の様子がよく残されている。
<所在地>小田郡矢掛町矢掛3079
<交 通>井原線矢掛駅から徒歩8分
脇本陣(高草家住宅)
 本陣の補佐的な役割として矢掛の町並みの東方にあり、建物は母屋をはじめ9棟が建ち、全体に明るく落ち着いた備中南部の大型民家の特色がよく現れている。
<所在地>小田郡矢掛町矢掛1981(石井家より約300m東の旧山陽道に面して北側にある)※文と地図は現地解説板に一部加筆の上、掲載
 旧矢掛本陣 石井家

石井家外観(主屋と御成門)
 
主屋は、入母屋造りの本瓦葺きである。裏にまわると、酒造関係施設、米倉、酒倉、絞り場、麹室などが棟を並べる。大名が出入した御成門をくぐると正面に本陣屋敷の玄関がある。宿泊大名は、年平均14家、西中国(萩、石見、安芸)、九州(唐津、肥前、筑前、筑後、薩摩)大名で、行列の総数500〜600名で構成され、本陣を中心として町全体に宿泊した。今なおその当時の宿札が多く残されている。

■石井家は江戸時代初期(1620年頃)、この地に居を構え、中期以後は代々大庄屋を務めるかたわら、本陣を兼ねた旧家で、元禄頃からは酒造業を営んで繁栄したという。屋敷地は旧山陽道に面し、間口がおよそ20間(36m)、約千坪(3164㎡)ある。街道に沿って東半に主屋(店及び居住用)、西方に座敷、御成門(本陣施設)を配し、主屋の背後東側には米倉、酒倉、絞り場、麹室(酒造関係の建物)が建ち並び、西方には内倉、西倉、中門、隠居所、番所等があり、南面敷地境に裏門座敷長屋がある。これらの建物は、一部安永・天保頃のものもあるが、幕末から明治21年頃までに現在の姿に整ったものと考えられる。主屋は前面の「店棟」、「店棟」の下手から南に「台所棟」、さらに西方に「居室棟」がそれぞれ棟を違えてつづき、中央に中坪がある。建築年代は安政頃「店棟」の建築に取り掛かり、「向屋敷」、「台所棟」、「居室棟」と順次建設し、明治21年頃完成した。その後、大正10年頃と昭和20年前後に修理を行なっている。さらに昭和61年から平成3年にかけて、大規模な修理を行い、現在に至っている。

 主屋の西方に接続する座敷は5室からなり、正面中央に唐破風付きの玄関を構える。梁の墨書から、天保3年(1832)の建築であることが知られる。主屋の建替にともなって東側9畳のトコ構えの一部を変更し、明治末から大正頃にかけて屋根葺替修理等があり、このときに12畳西側の大トコ等の改造が行なわれた。旧矢掛本陣は、規模が大きく、建築の質も優れ、附属屋に至るまで良く保存されていて、主要街道の本陣として類例もきわめて少なく、違例としての価値が高いことから昭和44年6月20日付けで各建物(11棟)が重要文化財に指定された。また、昭和58年6月2日には現在の屋敷構え全体を保存する上からも、宅地、家相図、隠居所等を含め、追加指定された。(文は現地解説板に一部加筆の上、掲載)

主屋外観(右端は御成門)
 主屋は旧山陽道に面して北向きに建つ。背後(屋敷の南半分)には内倉、西倉、米倉、酒造に関する麹室、絞り場、酒倉がある。主屋の右奥(主屋の西方、斜め後方)に、座敷・玄関・湯殿・中門・番所などの本陣屋敷があり、本陣屋敷の玄関正面に大名や幕府役人が出入りした御成門を構える。

主屋(店棟)大戸口
 縄のれんのかかる石井家家業用の出入口。
旧矢掛脇本陣 高草家 
  
 高草家外観
  高草家は旧山陽道の矢掛宿にあり、宝暦6年(1756)平田屋から分家して東平田屋と称し、寛政期(1800年代)には庭瀬藩の掛屋や藩札場元方を務めるかたわら大庄屋も兼ね、「大高草」と呼ばれた旧家で脇本陣になったのは天保の頃と推定。屋敷は間口17間(33.9m)、敷地面積約600坪(約2.000㎡)でこの町では本陣に次ぐ規模である。東から松陰楼(蔵座敷)、薬医門(表門)、表屋(家業に関した店舗部分)、家老門とならび、薬医門は旧庭瀬藩の陣屋門(矢掛町西三成)を明治初年に移築したものである。表屋、主屋は天保14年(1843)から弘化2年(1845)にかけて建て替えられた入母屋造り本瓦葺の表屋造りで、前半を店部分とし後半を住宅として使用していた。間取りは中央部分に通り土間を設け、左右に部屋を配し、表屋の南面格子は格調高い美しさをかもし出している。敷地内には、表門、蔵座敷、内倉、大倉、中倉、門倉、米倉の他、塀、供部屋、長塀等があり、建物や倉の意匠は全体に明るく落ち着きがあり、備中南部の民家の特色がみられる。昭和44年6月20日付けで各建物(9棟)が重要文化財に指定された。また、昭和57年6月11日に、供部屋、長塀、古図(嘉永5年)が追加指定された。(文は現地解説板に一部加筆の上、掲載)

表門と蔵座敷
 表門(矢掛脇本陣薬医門)は、旧矢掛陣屋の正門を移築。蔵座敷は、土蔵造り2階建て。通りから見ると倉に見えるが、内部は座敷になっている。

史蹟 旧山陽道 一里塚跡
 一里塚とは一里ごとの目印として道路の両側に土を盛って、木を植えた所をいう。一里塚を造り始めたのは織田信長で、その後、豊臣秀吉・徳川家康が全国に広めた。江戸時代の一里塚は、三十六町を一里とし、街道の両側に榎・松等を植えた。これは旅人の里程の目安となり木陰は休息所となった。現在、矢掛町には3ヶ所の一里塚跡が確認できる。この一里塚は旧矢掛宿内の東町の一里塚で、南北とも黒松で、北側の松は明治16年頃に積雪で倒れ、南側は昭和16年に省営バス路線工事のため伐採された。


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