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三成陣屋(矢掛陣屋) / 義倉跡
{沿革<山陽新聞社刊・宿場町矢掛より転載>}
関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏が防長二国に退くと、備中の大半は幕府の直轄地に組み入れられ、小堀正次・政一(遠州)父子が備中国奉行として備中松山城(現高梁市)に入り、その支配にあたった。小堀氏は小田・後月両郡のうちで一万石の所領を有していたが、矢掛は幕府領に属していた。
元和三年(一六一七)、小堀政一は河内国奉行に転出、替わって鳥取から移ってきた池田長幸が備中松山城主となった。長幸は備中で六万五千石の所領を賜り、矢掛もその所領のうちに加えられた。池田氏は寛永十八年(一六四一)長幸の子長常に嗣子なく断絶、矢掛は再び幕府領となった。
幕府領となった矢掛は幕府代官の所管するところとなったが、延宝元年(一六七三)になって矢掛にも陣屋が新設され、代官が駐在することになった。
元禄六年(一六九三)、矢掛村ほか十八か村が庭瀬藩主松平氏領になると、幕府代官に替わって松平家臣が矢掛陣屋(三成陣屋ともいう)に勤番した。その後、松平氏が転封になると、再び幕府代官が駐在、さらに元禄十二年(一六九九)旧松平氏領は庭瀬藩主板倉氏領になり、以後明治四年(一八七一)まで矢掛陣屋には板倉氏家臣が駐在して小田郡内の所領の支配にあたった。
幕末には奉行・代官等が政務をみる陣屋、奉行の役宅、上長屋・下長屋のほか長屋二棟、蔵一棟、稲荷社、弓道場等が設けられていた。正門は薬医門で、明治初年に矢掛脇本陣高草家に払い下げられ、同家の表門として現存している。門前には飢饉に備えて麦・粟等を蓄えておく義倉もあった。
※本陣は本来大将がいる陣所(本営)のことであるが、江戸時代には宿駅で大名・幕府役人・勅使等が宿泊、休息した公認の旅館を本陣と呼んだ。
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国指定重要文化財
旧矢掛本陣 石井家
間口約36m.、敷地約1000坪の広大な石井家の屋敷は、当時の旧姿を今に伝える日本建築の結晶。
白壁、鬼瓦、虫籠窓、なまこ壁などの独特の様式。石井家は江戸時代初期(1620年頃)、この地に居を構え、中期以後は代々大庄屋を努めるかたわら、本陣を兼ねた旧家で、元禄頃からは酒造業を営んで繁栄したという。
山陽道の宿場町“矢掛”
同じ宿場内に本陣と脇本陣が対になって国の重要文化財として現存するのは、他に類を見ないここ矢掛ならではの魅力。
▼矢掛脇本陣・高草家の表門として、明治6年(1873)に移築された三成陣屋の薬医門
※板倉氏領有時代の矢掛陣屋には、はじめ代官2名が駐在していたが、のち郡奉行2名、代官4名が輪番で駐在、常駐の下役とともに管下の村々を支配した。
周辺のみどころ
国指定重要文化財
旧矢掛脇本陣 高草家
本陣に次ぐ宿場の名家が選ばれたという脇本陣高草家。
化粧積みの低い石垣の上に建つ高草家は、東(右)から松陰楼(蔵屋敷)、薬医門、表屋、家老門とならび、薬医門は旧庭瀬藩の陣屋門を明治初年に移築したものである。
所在地 | 小田郡矢掛町矢掛堀東 |
文化財指定区分 | 矢掛町指定史跡 |
遺構 | 奉行屋敷・土塀・石垣・薬医門(矢掛脇本陣に移築) |
㊨神社隅に残る土塀と石垣
㊦稲荷神社
【
道路の突き当たりの屋敷が、現存する奉行屋敷(個人宅)
㊧奉行屋敷
㊦神社側からの奉行屋敷
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