このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国指定史跡 山形城跡
霞城公園
かじょう こうえん

「霞城セントラル」24F展望ロビーより望む山形城中心部(本丸・二ノ丸)

山形城周辺案内図
<現地案内板に追記>

■山形城(山形市霞城町)
 山形駅より徒歩約10〜15分

■山形城三ノ丸土塁跡(山形市十日町)
 山形駅より徒歩約10分

■霞城セントラル(山形市城南町)
 24F展望ロビー〜無料・7:00〜22:00
 山形駅西口より徒歩すぐ

訪城日〜平成30年10月再訪問
霞城公園
 霞城公園は、市街地のほぼ中央に位置し、約35.9haの面積を有する山形城跡の公園です。延文元年(1356)に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼(しばかねより・最上家初代)が築城したと伝えられ、現在の城郭は第11代城主最上義光(もがみよしあき・1546〜1614)が築いたものが原型とされています。
 本丸・二ノ丸・三ノ丸の三重の堀と土塁で囲まれた、全国有数の規模を持つ輪郭式の平城で、出羽の関ケ原合戦「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れたことから「霞ケ城」とも呼ばれていました。現在残っている二ノ丸の堀や土塁・石垣は、最上家改易後、元和八年(1622)に城主となった鳥居忠政(とりいただまさ)により整備されたと伝えられています。
 昭和61年に国の史跡指定を受け、平成18年には「日本百名城」に認定され、現在は桜と観光の名所になっています。

(右)最上義光公勇戦の像
 慶長5年(西暦1600年)の秋9月、怒涛の如く攻め寄せた上杉方の謀将直江山城守のひきいる二万三千余の大軍をむかえ、自ら陣頭に立って指揮奮戦し敵を撃退してよく山形を死守した山形城主最上義光が決戦場富神山にむかって進撃せんとする英姿であり、鎧兜は時代考証にとらわれず表現したものであります。
 右手にかざして持っているのは鉄の指揮棒で、清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光と刻んであります(文は現地説明板より)


山形城跡
 
(城内案内板より)

 ▼二ノ丸東大手門▼

二ノ丸東大手門
 左より、矩折(かねおれ)で接続する続櫓と櫓門、中央には高麗門・土塀と擬宝珠が取り付けられている大手橋、右手に北櫓を備えた山形城二ノ丸の正門。史実に従い日本古来の建築様式により木造建で平成3年(1991)に復原。


城内(枡形)から見た高麗門(右)と北櫓


高麗門から見た櫓門

二ノ丸から見た櫓門


二ノ丸に建つ「最上義光公勇戦の像」と、後方は櫓門と続櫓

一般公開している二ノ丸東大手門櫓(無料)


二ノ丸堀
 二ノ丸東大手門の大手橋から見た続櫓・土塀。後方は山形駅。
 ▼本丸一文字門▼
 
復原が進む本丸一文字門
本丸一文字門は元和8(1622)年以降の山形城の改修によって築かれた城門。
高い石垣は櫓台石垣と呼び、大手橋を渡ったところは枡形石垣。その上は枡形土塀。


山形城本丸一文字門復原完成想像図
 本丸一文字門は本丸の大手にあたり、櫓門・高麗門・枡形全体の呼び名です。櫓台石垣の上に載るのは櫓門形式の一文字櫓で、櫓の形が漢字の「一」に見えることからついた名前です。大手橋を渡り高麗門をくぐると石垣・土塀に囲まれた「枡形」に入ります。本丸に入るには右に折れ櫓門を通らなければならず、敵の侵入を食い止める城の工夫のひとつです。 大手橋は幅約5.5m・長さ約21.8mです。復原にあたり発掘調査により出土した木材を樹種鑑定し、出土材と同じ材質で復原しています。
 本丸一文字門の復原は平成8(1996)年の発掘調査に始まります。明治時代に埋められた本丸の姿を復原するために、枡形・櫓台石垣の修理を平成10〜15年、大手橋の復原が平成17年に行われました。(注)平成30年10月現在、一文字櫓・櫓門は未完成で、今後復原予定です。
(想像図と文は現地説明板より)


見学台からみた高麗門東側の様子
 左より、本丸堀、枡形石垣、土塀、高麗門、大手橋、櫓台石垣と続く。かつては本丸には、堀と土塁があったが、明治20年(1896)に兵営建設のため埋め立てられた。


見学台からみた高麗門西側の様子
 左より、高麗門、大手橋、櫓台石垣、東堀と続く。


石垣の崩落跡
 本丸堀の発掘調査を実施したところ本丸一文字門西側櫓台石垣前の堀底から、石垣石材が大量に出土しました。これは江戸後期の絵図で櫓台石垣の一部に『御櫓崩(おんやぐらくずれ)』との表記があることから、その崩落に由来する石材と考えられます。
 本丸堀跡の整備においては石垣崩落という歴史的事実を後世に伝える目的で、現況の展示としています。

本丸東堀(奥が本丸一文字門)
 堀や土塁は人工的に造られた防御施設です。本丸東堀は深さ約7m、土塁を含め高さ約10mの土手となっています。堀の幅は約33m、鉄砲・弓矢からの攻撃を避けつつ、城内からの射程距離も考慮したつくりとなっています。
 土塁は堀の堀りあげ土による盛土で、堀側(外法)は急角度で侵入を防ぎ、城内側(内法)は緩く守りやすい工夫がみられます。土塁上には土塀がめぐり、防御性を高めるとともに城の威厳を整えており、土塀基礎石列が(二ノ丸土塁上に)現存しています。堀は豊かな湧水による「水堀」で、かつては現存の二ノ丸堀と同じ趣を備えていたものと思われます。


本丸堀に架かる大手橋
 本丸堀の右側は二ノ丸跡。
 

大手橋から見た高麗門
 高麗門をくぐると枡形広場となっており、右に折れると櫓門となる。


城内(枡形)から見た高麗門と枡形土塀
 左の石垣は、東側櫓台石垣。


櫓台石垣
 西側櫓台石垣(左)と東側櫓台石垣(右)の間に櫓門、両石垣上に一文字櫓が復原される予定です。


本丸御殿側から見た櫓台石垣

発掘された本丸御殿の井戸
 本丸御殿の調査で、石組井戸が1基検出。この井戸は、本丸御殿内の散策園路整備にあわせて、常時見学できるように露出展示している。
 江戸時代以前の井戸は、主に木組み井戸や素掘り井戸(石組や木組みなどの構造物を持たない井戸)が主流でしたが、江戸時代に入ると石組井戸が盛んに作られるようになります。当時の地下水位は現在よりははるかに高く、1〜3mほど地面を掘ると水が湧いていたと考えられています。この湧き水を生活用水として利用するため、井戸が掘られました。


現在の本丸御殿跡の様子
 <本丸御殿跡の発掘調査>平成20〜23年までの調査で、礎石建物跡や掘立柱建物跡などの遺構が見つかりました。これらの年代は、おおよそ16世紀末期から17世紀初頭です。これは、最上氏が山形城主であった時代に相当します。
 最上氏は元和8年(1622)に改易となり、その後、山形城主となった鳥居氏の時代に、城郭は大きく改修されました。本丸の一文字大手門の石垣や土塁、堀の復原は、鳥居氏以後の姿を基にして行われています。つまり、今回見つかった礎石建物跡は、復原事業で基準とする年代と異なるのです。
 これまで調査で、鳥居氏以後(復原事業の基準の年代)の建物跡などは、明治時代以降の削平により失われていることがわかりましたが、今後範囲を広げてさらにこれらの有無を確認する予定です(現地案内板より)

本丸の復原整備について
 山形城跡は、国の史跡に指定されておりますので、当時の城郭等を復原しよとする場合には、建造物の大きさを確定するための平面図、高さや形を確定するための写真や立面図及びその存在を証明する遺構が残されていることが条件となります。
 山形城については、もともと天守閣は存在せず、本丸内には御殿がありましたが、御殿の間取り図は存在するものの建物の形を確認できる立面図等の史料はこれまで見つかっていないことから、現時点では、御殿の復原は困難な状況です。
 そのため、本丸については、遺構調査により御殿の位置を確認し、上記のイメージ図のような御殿の間取りを表示する形でイベント等ができる広場としての整備を検討しております(文とイメージ図は現地説明板より)

 ▼そのほかの見どころ▼

山形城三ノ丸土塁跡(東側)
 ここ歌懸稲荷神社境内の西側に残る土塁は、三ノ丸の東南方の十日町口に南接する部分にあたります。昔を偲ばせる樹木が繁茂しており、東側には堀跡が窪みとなって残っています。現在は、二ノ丸の区域内(霞城公園)とともに、山形城跡として国の史跡に指定されています。


三ノ丸土塁跡
 この土塁の裏側が左写真となる。

南門(二ノ丸南追手門跡)
 二ノ丸には、南門・西門・北門・東大手門の4つ(最上氏時代は5つ)出入口があった。

西門
 
西門の櫓台石垣と、それに続く二ノ丸土塁。堀は現在も残る二ノ丸堀。


西門跡(二ノ丸西不明門跡)
 石垣は修理が施されておらず、2基の櫓台と枡形を残す。

復原された坤櫓(ひつじさるやぐら)の石垣
 ここには江戸時代に坤櫓が建っていた。二ノ丸の南西隅に位置していたので、方角を示す坤の名称で呼ばれていた。発掘調査で櫓建物の土台である石垣が発見され、石垣は最大で4段、高いところで約1.4m残っていた。左側の石段は、雁木とよばれる石垣の階段。


横矢の絵図(現地説明板より)
 横矢(よこや)とは、土塁を屈曲させ、鉄砲や弓などの防御部隊を配置して、城門から侵入する敵を横方向から攻撃するための施設。二ノ丸土塁の7ヵ所に設けられていた。
 横矢の機能は、守る側が塀などの死角に隠れて城門から侵入する敵を攻撃することです。塀には狭間という鉄砲を打つための穴があけられていました。横矢からの側面攻撃のみでなく、城門の櫓などからの正面攻撃の併用も想定していたと考えられます。


二ノ丸土塁上に残る横矢遺構
 土塁の奥は、南大手門方向となる。

復原された巽櫓(たつみやぐら)の石垣
 二ノ丸土塁にある櫓の1つ。発掘調査で櫓の土台である石垣が発見された。石垣は1〜2段、高いところで約1m残っていました。江戸時代の絵図面によると、東西3間4尺(約6.6m)・南北5間5尺(約10.6m)と記されていましたが、調査により図面と一致することが分かりました。
 発掘調査で大量の瓦が出土しましたので、瓦葺きの建物であったことが分かりました。


塀礎石(へいそせき)
 
土塁の上には塀が立てられていました。この石列は、塀の礎石(基礎石)として設置されたものです。
 本丸や二ノ丸の土塁には塀が建てられており、塀を支える基礎石(礎石)は現在も残されております。発掘調査により、周囲から瓦が出土したので、塀は瓦葺きであったことが判明。


二ノ丸土塁

本丸一文字門の復原石垣
 以前訪問した時の本丸一文字門石垣の復原状況です。

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