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    <箱根外輪山の西側斜面(標高585m)に、石垣はなく土塁と空堀で造られた土造りの城>

 
 《山中城跡公園》
 
山中城は、本丸を扇の要に配置し、本丸を中心にして三方に派生する尾根を利用し、曲輪群を設けている。北に延びる尾根上に北ノ丸、西に延びる尾根上にはニノ丸・西ノ丸・西櫓・西木戸を、南尾根上には、三ノ丸・岱崎(だいさき)出丸を置いた。
 【所在地】 静岡県三島市山中新田
《中世の山城・山中城跡》
 史跡山中城は、小田原に本城をおいた後北条氏が、永禄年間(1560年代)小田原防衛のために創築したものである。やがて天正17年(1589)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西ノ丸や出丸等の増築が始まり、翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三ノ丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。
 
 三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和48年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。
特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。(文は現地説明板より)
《主な見どころ》
   ▼岱崎出丸の畝堀
   

   戦国時代後半の関東の戦国大名後北条氏の城では空堀の堀底に土手を掘り残した堀内障壁が多用されている。
   堀に対して直交に設けたものを畝堀という。

   ▼西櫓と西ノ丸間に残る障子堀
   

   堀内に障子の桟状に設けたものを障子堀と呼ぶ
400年前の遺構がそのまま復元されている山城
山中城跡公園探訪

▲山中城現状イラスト(岱崎出丸を除く)

〜三ノ丸・二ノ丸・本丸・西ノ丸・西櫓をゆく〜

▲岱崎出丸入口から見た三の丸跡広場(駐車場)
 左右の道は国道1号線。1号線手前は岱崎出丸側、後方が三の丸側。手前の石畳は復元整備された箱根旧街道。


▲三ノ丸跡広場
 広場の後方には、三ノ丸堀が復元されている。
三ノ丸堀
 三ノ丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は、大切な防衛のための堀である。

 城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、畝(うね)を掘り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三ノ丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。

 この堀の長さは約180m、最大幅30m、深さは約8mを測る。
(以下、各説明文は現地案内板より)

▲田尻(たじり)の池
 東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。山城では、水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。
 しかも、西側は「馬舎(うまや)」と伝承されているところから、この池は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。

▲元西櫓下の堀
 城の内部に敵が進入するのを防ぐため人工的に土地を深く掘り下げたものが堀である。掘りあげた土は曲輪の中へ運び、平らにならしたり土塁に積んだりするのに用いられる。山中城では、曲輪の四周は大体堀で囲まれている。堀の深さと幅とは地形と曲輪の重要度に深く関連している。
 また、山中城の堀に、石垣が用いられていないということは大きな特色である。ここは堀底に近いが、400年前はローム層が露出し、もっと急斜面であった。


▲土橋
 土橋は城(曲輪)の虎口(入口)の前を通路だけ残してその左右に堀を掘って城への出入りの通路としてつくられる。この土橋から西ノ丸へ入るには、土橋を渡って正面の土塁の下を左へ折れ、西ノ丸南辺からのびてくる土塁との間の細い上り坂の通路を通り、更にこの二つの喰い違い土塁に挟まれた通路に設けた木戸を通る。この土橋は第一の関所であり、また高い方の堀の水を溜めておくための堤防でもある。


▲史跡 山中城阯石碑
西櫓堀
 堀内には、ほぼ9m間隔に8本の畝が、堀の方向に対して直角に作られている。畝はローム層を台形に掘り残して作ったもので、高さは堀底から約2m、頂部の幅は約0.6m.で丸みを帯びている。

 畝の傾斜度は50度から60度と非常に急峻である。平均した堀底の幅は2.4m、長さは中央で9.4m、堀底から西櫓までの高さは9mもある。

 現在は植栽されているが、400年前はすべりやすいローム層が露出し樹木は全くなかったので、もし人間が堀に落ちれば、脱出することは不可能だったと推定できる。
西ノ丸堀
 西ノ丸堀は、山中城の西方防備の拠点である西ノ丸にふさわしく、広く深く築城の妙味を発揮しており、堀の末端は谷に連なっている。

 西櫓と西ノ丸の間は、中央に太い畝を置き、交互に両曲輪にむかって畝を出しているが、西ノ丸の北側では東西に畝をのばして堀内をより複雑にしている。

 このように複雑な堀の構造は、世に伝えられる「北条流堀障子」の変形であり、学術上の価値も高いものである。

▲溜池(ためいけ)
 ここは溜池(貯水地)の跡である。山田川の支流の谷がここまで延びてきていたものを盛土によって仕切り、人工土手を作って深い堀としたものである。この溜池へ本丸・北ノ丸等の堀水が集まり、また広大な西ノ丸の自然傾斜による排水も、元西櫓の排水も流入するしくみである。深さ4m以上発掘したが、池底には達しなかった。
 山城の生命は、水の確保にあるといわれるが、貯水への異常な努力をうかがうことができる。


▲本丸堀
 山中城の堀の特色のひとつに、畝堀があげられる。この堀の中にわずかに見えるのが畝の頂部である。畝と畝の間隔は一定ではないが、ここでは西下りの地形にあわせて、畝の上部も階段状に西へ下がっている。
 城の防備上からは、堀の中の水が深く、堀も深いのが堀としては最もよいが、高地では普通空堀である。ここの本丸堀は畝をつくることにより、用水池をも兼ねることができるわけである。

▲北ノ丸堀
 山城の生命は堀と土塁にあるといわれる。堀の深さが深く、幅が広いほど曲輪につくられる土塁が高く堅固なものとなる。400年の歳月はこの堀底を2m以上埋めているので、築城時は現況より更に要害を誇っていたに違いない。
 この外堀は山中城全域を囲むように掘られ、水のない空堀となっている。石垣を用いるようになると、堀の両岸はより急峻になるが、石を用いずこれだけの急な堀を構築した技術はみごとである。

▲北ノ丸跡
 標高583m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置する。一般に曲輪の重要度は、他の曲輪よりも天守櫓により近く、より高い位置、つまり天守櫓との距離と高さに比例するといわれている。この点からも北ノ丸の重要さがしのばれる。
 調査の結果、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を作り、本丸側を除く、三方を土塁で囲んでいたことが判明した。また、本丸との間には木製の橋を架けて往来していたことが明らかになったので、木製の橋を復元整備した。


▲架橋
 
本丸と北ノ丸を結ぶ架橋(かけはし)が木製で復元。山中城の堀には、土橋が多く構築され、現在も残っているが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。木製の橋は土橋と較べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり、曲輪の防衛には有利である。

▲天守櫓跡
 標高586m、天守櫓の名にふさわしく、山中城第一の高地に位置している。天守は独自の基壇の上に建てられており、この基壇を天守台という。基壇は一辺7.5mのほぼ方形となり、盛土によって50〜70cmの高さに構築され、その四周には、幅の狭い帯曲輪のような通路が一段低く設けられている。
 天守台には、井楼、高櫓が建てられていたものと推定されるが、櫓の柱穴は植樹により撹乱されていたため、発掘調査では確認できなかった。

本丸跡
 標高578m、面積1740㎡、天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。

 周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。

 虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北ノ丸へ、西は二ノ丸(北条丸)に続く。

 江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚の位置である。

▲兵糧庫側(手前の平坦面)から見た本丸跡
 
本丸は盛土によって兵糧庫側から2m前後の段をつくり、二段の平坦面で築かれている。


▲兵糧庫跡
 ここは古くから兵糧庫とか、弾薬庫と伝承されていた場所である。

▲二ノ丸(北条丸)
 二ノ丸は東西に延びる尾根を切って構築された山中城最大の曲輪。二ノ丸は、本丸が狭いのでその機能を分担したものと思われる曲輪。


▲二ノ丸虎口と架橋(かけはし)
 架橋の後ろは元西櫓。

▲元西櫓側から見た架橋と二ノ丸虎口
 二ノ丸と元西櫓の間の堀には、橋脚台が掘り残されており、四隅に橋脚を立てた柱穴が検出された。橋脚の幅は南北4.3m、東西1.7mで、柱の直径は20〜30cmであった。復元した橋は遺構を保護するため、盛土して本来の位置より高く架けられている。


▲元西櫓
 この曲輪は西ノ丸と二ノ丸の間に位置し、周囲を深い空堀で囲まれた曲輪。当初名称が伝わらないため無名曲輪と呼称したが、調査結果から元西櫓(もとにしやぐら)と命名した。

▲箱井戸・田尻の池へ降りる途中から見る二ノ丸跡

▲箱井戸跡
 箱井戸は山中城将兵の飲料水。田尻の池は馬用の飲み水として使われたと考えられている


▲岱崎出丸イラスト

〜岱崎出丸をゆく〜

▲岱崎出丸への登城口
 
石畳の道は、復元整備された箱根旧街道。

▲箱根旧街道
 延宝8年(1680)に初めて石だたみが敷かれ、文久2年(1862)に大改修された。


▲岱崎出丸登城口を登ったところの曲輪跡
 この通路をさらに奥に行くと右写真の曲輪跡となる。


▲左写真の奥に行ったところの曲輪跡

▲岱崎出丸からの眺め

▲出丸御馬場堀
 堀内に畝が検出されたことから、西櫓堀・西ノ丸堀と同様畝堀であったと考えられる。


▲岱崎出丸
 
この地は、標高547m〜557m、面積2万400㎡におよぶ広い曲輪。

▲岱崎出丸
 天正17年(1589)秀吉の小田原征伐に備えて、各曲輪の修築と共に、この出丸の増築を始めたが、短期間のため完成できず、中途で放棄したようすが、発掘の結果諸所にあらわれたのも興味深いことである。


▲すり鉢曲輪
 
山中城出丸の最先端を防備する重要な位置にある曲輪である。そのためか、曲輪の構築方法も、本丸側の曲輪とはまったく異なり、中央部を凹ませて低くし中心からゆるやかな傾斜で土塁までたちあがり、中途から傾斜を強め土塁の頂部に達している。上方から見たようすが、すり鉢によくにているところから通称「すり鉢ぐるわ」とよんでいる。


▲武者溜り跡
 すり鉢ぐるわの東側に接続して、幅8mの長方形の曲輪が、作られており、防備のための「武者だまり」と推定されている。
崎出丸「一の堀」
 第9次発掘調査(昭和56年度)により検出された一の堀は、出丸全域を鉢巻のようにめぐるのではなく、先端のすり鉢曲輪から西側の中腹を箱根旧街道の空堀まで続くものである。

※写真左上は本丸二ノ丸・西ノ丸跡。
岱崎出丸「一の堀」
 第9次調査では、指定地内の約150mの間に、17ヶ所の畝を確認することができた。完掘りされた一の堀の第3区画はローム層を掘り下げて畝を残し、70度前後の傾斜角をもってたちあがっている。
 したがって堀底からすり鉢曲輪の土塁までは、斜距離18〜20m前後の急峻な勾配がつくわけである。

※写真後方は三島方面。

■交通ガイド

※JR東海道本線・東海道新幹線「三島」駅南口から沼津登山東海バス「元箱根港行き」で約30分「山中城跡」下車すぐ
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