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やまとこおりやまじょう

◆毘沙門郭に建つ柳沢文庫 昭和三十六年(一九六一)の開館。 藩主柳沢家伝来の史料を中心に、(財)郡山城史跡・柳沢文庫保存会の運営する地方史専門の図書館。 館内に、郡山城の古絵図や古写真、出土瓦、歴代城主系図など、歴史資料を展示している。 玄関には、御殿建築と同じく車寄せが設けられている。
◆竹林橋櫓台 毘沙門郭(びしゃもんくるわ)より望む。 竹林橋(ちくりんばし)櫓は古くは台所橋櫓とよばれ、籠城戦のときの食事の賄いを担うためにつくられた。手前の小道には、かつては多聞櫓が建っていたが、現在では両側が堀の土橋となっている。
◆石垣と堀 近世城郭として城が整備されたのは、秀長時代で、筒井氏の後に豊臣秀吉は弟秀長に、大和・紀伊・和泉百万石を与え、郡山城主とし、本格的な巨城を造営させた。 城は、秀長の死後、益田長盛が城主の時に完成した。
◆坤櫓の石垣 天守郭の西南に位置し、坤(ひつじさる)櫓が石垣上に建っていた。
◆天守閣跡
◆天守郭石垣と堀を望む
復元された建造物
追手門・追手東隅櫓・追手向櫓
遺構
天守台・石垣・堀

▲追手門
柳沢氏が入部したころは、「梅林門」とよばれた。

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▲追手向櫓(左)と追手門(右)
追手向櫓(おうてむかいやぐら)は、追手門の南に門と向かい合うように建つ隅櫓で追手門の守りを固めた。

▲追手東隅櫓と多聞櫓<写真左・右>
2重の東隅櫓は敵兵の物見と、横矢で守備する重要な櫓。かつては時を知らせる太鼓が置かれていた。

▲天守台の重厚な野面(のづら)積み石垣<写真左・右>

大和郡山市は日本一の生産を誇る金魚のまち

「幻の天守」解体後、本来の姿である天守郭石垣
樹木で見えにくいですが、天守郭石垣上の天守台。

天守郭石垣と天守台上の「幻の天守」
天守台跡に、大和郡山市制50周年記念行事として仮に建てられた「幻の天守」。ただし、平成16年11月には解体

◆竹林門跡石垣
◆天守台石垣 天守台北東部分の石垣
大和郡山城
城データ所在地奈良県大和郡山市城内町 ※大和郡山城へは近鉄郡山駅より徒歩10分
別 名犬伏城。正式名称は郡山城
地形種類平城。 奈良県北部、郡山丘陵の突端に築かれた
史跡区分県指定史跡(昭和35年7月28日指定)
築城者筒井順慶(つついじゅんけい・1549〜84) 大和覇権をめぐり、松永久秀と攻防を繰り返す。久秀を追った織田信長に従い、大和一国を領する。
築城年天正8年(1580)築城開始
遺構
現況
天守台、高石垣、水堀。建築物は全て解体されたが、城門が近くの永慶寺山門として移築現存。城跡一帯は、公園化されており、出入り、見学は自由
再建造物追手門<昭和58年(1983)復元> ・ 追手東隅櫓・多聞櫓<昭和59年(1984)復元> ・ 追手向櫓<昭和62年(1987)復元>
概略■郡山城は、天正6〜7年(1578〜1579)に筒井順慶が縄張りをおこない、同8年の一国一城令に基づき拡張、同11年には天守も完成をみた。同13年、豊臣秀長(秀吉の弟)が入部してさらに拡張され、文禄5年(1596)には益田長盛(ましたながもり)による秋篠川の付け替えが行なわれ、外堀を一周させ、城下町の完成をみるに至った。
■関が原戦後、長盛が改易され、大坂夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保9年(1724)以降、幕末まで、柳澤15万石の居城として栄えた。
■現在のこる縄張りは、秀長時代のもので、左京堀、鰻堀、鶯堀で囲まれた本丸、二の丸、三の丸などが城内で、それ以外の外堀に囲まれた地域が城下となる。
■なお、史跡として指定されているのは、本丸、毘沙門郭、法印郭、玄武郭、陣甫郭及びその内堀である
 (城内説明板より)

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