このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 やつ しろ
八代城

【歴 史】
 元和の一国一城令でも破却されず、肥後熊本の一国二城体制を担った肥後藩の支城・麦島城は、元和5年(1619)の大地震で倒壊した。同年9月に藩主加藤忠広(熊本城を築いた加藤清正の三男)は幕府から新城築城の許可を得て、城の再建を麦島城代加藤正方に命じた。

 加藤正方は城を麦島に再建するのではなく、現在地に移し、元和6年から元和8年にかけて築城、5層の天守と2層の小天守が完成。これが現在の八代城である。麦島城の倒壊後も、熊本城と八代城が肥後熊本藩の一国二城体制を支えることとなった。

 寛永9年(1632)加藤氏の改易により、熊本城主となった細川忠利の父忠興が入城して北の丸に住み隠居城とし、本丸には四男立孝が居住する。忠興・立孝が没した後、正保3年(1646)からは筆頭家老松井興長が城代となり明治までつづいた。

 現在は、本丸の石垣、天守台、内堀と、北の丸の石垣と堀の一部が遺存するのみであり、城内の建物のうち三の丸永蔵門と番所、本丸欄干橋門(高麗門)が移築現存している。
(城跡案内板より)

【八代城本丸部分図】



本丸東辺と欄干橋
 手前の石垣上は宝形櫓跡、奥の突出ている石垣上は磨(みがき)櫓跡。欄干橋を渡ったところが高麗門跡。


宝形(ほうぎょう)櫓跡から見た磨櫓と欄干橋
 道路右は二の丸跡で、今は八代市役所が建つ。

本丸北辺の廊下橋
 右の石垣は大天守台。

本丸南辺の様子
 手前石垣上は月見櫓跡。橋は明治時代に本丸に八代宮の社殿が建立された時に造られた神橋

【大天守台・小天守台】
■大天守台 この天守台に五層の天守が建っていた。 寛文十二年(一六七二)落雷により天守・櫓・長塀を焼失。小天守以下の建物は再建されるが、大天守は再建されなかった。

■大天守台と小天守台 本丸の北西隅に位置し、左端が大天守台、その手前が小天守台。小天守は二階櫓であった。


大天守台
 右側は、天守台地下1階の穴藏(あなぐら)。
 
 大天守台の穴藏
  大天守へは、小天守を経由して穴藏から大天守に上がって行く構造。


小天守台から見た大天守台
 
 大天守台から見た小天守台


小天守台
 本丸南西隅の月見櫓跡から見た北西隅の小天守台。芝生の上には長塀が小天守まで続いていた。

 
 小天守台
 【本丸正門と裏門】

本丸正門の欄干橋と高麗門跡(本丸東辺)

 


写真上(左・右)
 欄干橋跡と高麗門跡。高麗門は「欄干橋門」とも呼ばれ、八代城本丸の正門に当る表枡形門の「一の門」になり、高麗門を通り抜け、鍵の手に曲がった所に「二の門」である頬当門がある。これは外部からの敵が直進して城内に入るのを防ぐために造られた。欄干橋は木造の太鼓橋であったが、現在はコンクリート製の橋が架けられている。
写真左
 城内から見た高麗門跡と欄干橋。


本丸北辺に位置し、本丸搦手口にあたる廊下橋と廊下橋門跡
「写真右」大天守台から見た廊下橋
「写真下」廊下橋と廊下橋門跡
「写真右下」城内からの廊下橋門跡と廊下橋

 廊下橋門は、本丸の裏門にあたる裏枡形門の「一の門」。枡形門とは、四方を石垣で囲み二箇所の門口を設けたもの。
 
 

 【櫓跡】

唐人櫓跡
 
 月見櫓跡
  右の橋は、後世に造られた神橋。


宝形櫓跡
 宝形櫓は方形櫓とも表し、二階建ての櫓であった。
 
 磨櫓跡
  高麗門の南側にあった平櫓。右に見える橋は欄干橋。


  
八代城跡碑



八代駅

【交通ガイド】
 JR鹿児島本線「八代駅」からバスで約15分、「八代宮前」下車すぐ。
 

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     国史跡

▲八代城本丸西辺の石垣と内堀
 左端の出隅は大天守台、その右側の石垣は小天守台、右端角は月見櫓跡。

所在地熊本県八代市松江城町別称白鷺城・松江城形式平城
創築年元和8年(1622)創築者加藤正方(まさかた)遺構天守台・石垣・堀

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