このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

三つの淀城淀の地には時代、場所をまったく異にする三つの淀城が存在した。

●戦国時代に築城された淀城。
●豊臣秀吉が側室茶々に与えた淀城。
●徳川幕府によって築城された現在の近世淀城。
淀古城戦国時代の淀城、秀吉の淀城は淀古城と称され、共に、現在の淀城の北方、納所(のうそ)の地に築かれた。淀古城を有名にしたのは、天正17年(1589)、豊臣秀吉による側室茶々と長男鶴松のための築城であり、これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになった。現在、淀古城の遺構はまったくうかがうことができない。
近世淀城[所在地]  京都府京都市伏見区淀本町
[築城年] 元和9年(1623)
[築城者] 松平定綱(まつだいらさだつな)
[地 形] 平城
[遺 構] 本丸石垣、天守台、内堀

◆天守台◆

◆本丸石垣と内堀◆

納所地区の様子

妙教寺境内と淀古城碑

淀古城碑

天守台内部に築かれた穴蔵  発掘調査の結果、礎石が整然と並ぶ穴蔵(あなぐら。地階のこと)が検出された。 天守へ上がるためには、まず穴蔵に入り、穴蔵から階段を上がって天守一階に行く構造となっていた。
淀城の由来
 徳川二代将軍秀忠は、元和五年(一六一九)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中定綱に築城を命じて、元和九年(一六二三)に着工、寛永二年(一六二五)に竣工した。翌寛永三年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿舎としている。
 寛永十年(一六三三)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保八年(一七二三)五月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。
 江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径八メートルもあり城の西南と北の二ヶ所に取り付けられていた。
 昭和六十二年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦六年(一七五六)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである(文は現地説明板より)

現在の淀城跡から北方約500メートルの所にある妙教寺境内に建つ淀古城碑。

淀古城碑には、淀古城址、戊辰役砲弾貫通跡の文字が刻まれている。
この寺には戊辰戦争の時の弾痕が今も残されている。
淀殿ゆかりの淀城は、妙教寺のある納所にあったと推定。


※淀殿〜浅井長政とお市との間に生まれた3人娘の長女(茶々)のこと。お市は信長の妹。

近世淀城
天守台(上・左)  かって天守台には、二条城から移された五重の天守が建ち、天守の形態は、二重の大入母屋屋根の上に三重櫓を載せ、外壁は総塗籠の漆喰壁であった。  宝暦六年(一七五六)、落雷により天守をはじめ城内の大半の建物が焼失後は、天守は再建されなかった。  なお、天守台後方は京阪電鉄京阪本線「淀」駅です。
城内から見た天守台  天守の構成形式は、天守台の四隅に二重櫓を配し、その間を多聞櫓で連結した連立式天守であった。
(上)本丸石垣南面  右端の一段高くなった突き出た石垣は天守台。 天守台は本丸南東隅に位置する。 (左)西の丸から見た南西隅の本丸石垣  左奥、後方は二ノ丸跡。本丸と二ノ丸は内堀によって囲まれていた。
淀古城

【交通ガイド】
京阪本線「淀」駅から徒歩すぐ。
淀駅前に、本丸の堀と石垣が残され、駅ホームから天守台石垣を見ることができる。

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