このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国史跡  横須賀城跡
         <静岡県掛川市横須賀>

▲南東側から見た横須賀(よこすか)城本丸跡
中世城郭と近世城郭の特徴を併せ持った平山城。大手門が、東西にあることから「両頭の城」との異名をもつ。


■横須賀城の歴史
 戦国時代末期この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続いていた。天正2年(1574)遠江国の要である高天神城が武田氏の手に落ちた。

 天正8年(1580)徳川家康は、家臣の大須賀康高に命じ、約6キロメートル東に存在する武田方の高天神城を奪還するための軍事拠点として横須賀城を築かせた。

 天正9年(1581)に高天神城が落城すると、江戸時代にかけて、城は近隣支配の拠点となった。城主は築城者大須賀氏の後、渡瀬氏、有馬氏、松平氏、井上氏、本多氏と続き、天和2年(1682)からは、西尾氏8代が城主となった(城主は8家20代)。

 明治2年(1869)の廃城後は、城に関する土地や建物等が民間に払い下げられ、横須賀城はその姿を消した。昭和56年(1981)5月8日、国の史跡に指定される。

■横須賀城の縄張
  
 城は、海岸沿いの丘陵上にあり、本丸を中心に東から三の丸・北の丸・西の丸・二の丸を配置。絵図から三重4階の天守があったと考えられている。現在、本丸・天守台・西の丸・北の丸・松尾山などの本丸を中心とする部分は史跡公園として整備されているが、三の丸・二の丸は一部遺構が遺存するが工場敷地、住宅地等となりほとんど遺構はない。

▲北の丸(平坦部)と後方は松尾山


▲本丸上からみた北の丸

▲西の丸跡
手前には駐車場(無料)とトイレが整備。


▲天守台跡

▲西櫓跡
西大手門の直ぐ東隣にあった建物。


▲二の丸跡

■横須賀城の特徴
 横須賀城は、小笠山から西に張り出した尾根とそれに続く長い砂嘴(さし)地形を利用して築かれ東西に長い形をしている。築城当時、山城として築かれた本丸・松尾山に近世以降の拡張工事によって、二の丸郭、三の丸郭の平城部分が付け加わり、平城と山城の特徴を兼ね備えていることから、平山城といわれている。また普通一か所しかない大手が、東西二か所にあることや、玉石積みの石垣、宝永大地震までは城内に船着場があったことなどがあげられる。

▲松尾山

▲本丸上から下方を望む


▲復原された玉石積みの石垣

▲東大手門跡


■横須賀湊と横須賀城
 
 江戸時代中頃まで、城のすぐ前から北西裏にかけて遠州灘(復原模型の中土居道下側)から深く入り込む入江があって、横須賀城を天然の要害としていた。入江には横須賀湊があり、大きな船も寄港し水上交通と物流の拠点となっていた。また、この入江と外堀を区切る形で中土居と呼ばれる土手があり、横須賀から袋井に通じる街道となっていた。

 小笠山を挟んで立地する掛川城が、陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は海辺の道と海上交通の要衝である遠州灘の押さえとして重要であったと考えられる。

 城前のこの入江は、宝永4年(1707)の宝永大地震による地盤隆起によって干し上がり、横須賀城周辺の様子は一変するとともに湊も使えなくなり、横須賀城と城下町は軍事と経済面で大打撃を受けたと考えられる。湊が使えなくなった以後は西方の太田川河口の福田湊まで運河が造られて小舟が行き来した。

▲城跡の前面外堀跡

▲県道となっている部分が中土居道と呼ばれた土手
その南側(県道の右手)は宝永大地震までは入江になっていた。


■明治維新の廃城・移築現存門
 明治元年(1868)20代城主西尾忠篤は、明治維新の激動のなか、安房国花房(現千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩領は徳川家達(いえさと)の領地となって静岡藩に含まれた。明治2年8月には横須賀城も廃城となり、明治6年には城内の土地、建物、石垣、立木まで民間に払い下げられて、町並みや田畑が形成され、更に堀も埋め立てられ城としての景観を失った。

▲三日月堀
当時の堀で現在残っているのはこの堀跡だけで、この城の初期にあった内堀の名残りと伝えられる。


▲横須賀城不開門(市指定建造物)
城近くの撰要寺には、城主・本多氏時代に建てられた不開門(あかずもん)が現存している。

■遺構復原整備の状況

▲整備された本丸南下門跡推定地
この区域は、天守台方面へ至る玄関のような重要な部分に当り、自然の尾根や谷を巧みに利用して門や塀などの施設により厳重に固められていた。


本丸南下門跡推定地(上・右・下)
横須賀城で最も規模が大きかったと考えられる櫓門があったと推定される。復元した石垣の石は大井川から採取した石を使っている。
 
 訪問時(2009年11月)城跡には「虹の川」と題名のついた造形作品が展示されていた

 
▲三日月池北側中段に本丸上面まで復元された石垣
当時の絵図に、本丸東端部から、三日月池方面へ下るスロープ状部分と石垣が描かれている。発掘調査が行われ、その成果を基に環境整備が行なわれた。

▼下の写真は本丸上から見た三日月池北側中段。平坦部には玉砂利敷遺構が表面表示されている。玉砂利敷は建物内の土間と考えられている。
 

▼天守台の遺構
 
 横須賀城の天守は建て坪40坪余、4層も建物と記録されている。ここからは礎石と礎石を抜き取った穴がおおよそ2mの間隔で碁盤目状に27箇所検出され天守跡と考えられる。天守台周囲には低い石垣があり、東南隅には入口と考えられるスロープがある。建物跡東側には、砂利敷された平坦面があり、北側には防御のため土塁があった。天守台の周囲からは天守に使われた瓦が多量に出土しており、西側からは鯱瓦の頭部が南側からは尾の部分が出土している。
【交通ガイド】
東名掛川インターチェンジより車で30分
東名袋井インターチェンジより車で20分


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