このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
横 手 城
■横手公園入口
大手口にあたる「七曲(ななまがり)」の坂を上る登城口。
■横手城は、1555年(弘治1)頃、山北地方を領有していた小野寺氏が朝倉山上に築いた平山城(創築の時期については諸説あり)。その昔は朝倉城とよばれた。山の南と西に横手川が流れ、北に明永沼と牛沼、東は奥羽山脈に連なる要害地に、石垣を使わず土塁で築城。土崩れと敵の侵入を防ぐために韮を植えたので、韮城(にらじょう)という呼称もある。1601年(慶長6)、関ヶ原合戦で西軍とみなされた小野寺氏は配流になり、横手は秋田藩佐竹氏の所領となる。佐竹義宣は朝倉城を改築して佐竹藩の支城として、城代を置いた。城代として、伊達氏・須田氏・戸村氏が在城した。1868年(慶応4)戊辰戦争のさい、佐竹氏は奥羽越列藩同盟に加盟したが、一転して新政府軍に与したため同盟軍の攻撃を受け、城館は焼失した。
■現在、城跡は横手公園として整備され、土塁、内堀、牛沼が現存。二の丸、武者溜は公園化が著しいが、本丸は旧状をとどめている。1965年(昭和40年)二の丸跡に天守様式の展望台が完成した。
(復興の模擬天守は城とは無関係のものである)
■横手城跡から望む横手川と横手市街
横手川は雄物川の支流で旭川ともいう。横手城の外堀の役目をはたした。
横手城歴史散歩〜大手口から本丸へ
■「七曲」の坂
石段をつづらに折れながら大手門跡へと導かれる。麓からの標高は40mほど。この坂を登城の武士たちも登った。
■武者溜跡
「七曲」の坂を上りきると「武者溜跡(むしゃだまり)」がひらける。出陣に際し、城兵が待機した広場。
本丸の北方に位置し、武者溜を隔てて二の丸が配置されている。
■横手城 二の丸跡
城代戸村氏の時代には居館が置かれていた。
■二の丸跡に建てられた天守様式の展望台
横手城には天守は築かれなかったが、現在、二の丸跡に天守を模した展望台が建つ。
■本丸跡
「武者溜跡」から右手に位置し、丘陵の突端部の高所に構えた。土塁の上部部分が本丸跡。小野寺氏の築城から戊辰戦争での落城まで、政務を執る役所の御殿で埋め尽くされていた。
1879年(明治12)、本丸跡に初代秋田藩主・佐竹義宣を祀る秋田神社の分社が建立されている。松の古林に往時が偲ばれる。
横手城周辺図
二の丸まで、横手駅から徒歩2分の横手バスターミナルから羽後交通バス幸町方面行き10分の幸町下車、徒歩10分
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「所在地」 秋田県横手市
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