このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「一国一城令」後も鳥取城の支城として存続し、二基の大小天守も幕末まで存在した伯耆(ほうき)の名城
国史跡 米子城

【別名】久米城(くめじょう)湊山金城(みなとやまきんじょう)  【所在地】鳥取県米子市久米町

番所跡から望む天守郭の大天守台石垣(右上)と小天守台石垣(左端)。
大天守台に四層五重、小天守台に四重櫓の大小二つの天守が並んでいた。 


【米子城の歴史】
 米子城は、伯耆国守護山名教之(やまなのりゆき)の配下、山名宗之(むねゆき)によって応仁年間から文明年間(1467~1487年)に築かれたと伝えられる。

 その後、天正19年(1591年)には、西伯耆・東出雲・隠岐の領主であった吉川広家(きっかわひろいえ)が新たに築城を開始したが、関ヶ原の戦い後、吉川広家が岩国に転封となった。

 このため、新たに伯耆18万石・米子城主となった中村一忠(かずただ)が築城を続け、慶長7年(1602年)に完成させたとされる。

 絵図によると米子城は、天守と副天守(四重櫓)の二つが並ぶ威容を誇っている。一説によると、四重櫓は天守に先行する古い時代のもので、吉川時代のものとも尾高城から移築したものとも伝えられている。

 中村氏により、城下町を含め整備された米子城であったが、中村氏の改易の後、慶長15年(1617年)に加藤貞泰(さだやす)が入城、そして、加藤氏転封後は、池田光政一族の池田由之(よしゆき)・由成(よしなり)と城主が頻繁に入れ替わる。

 池田光仲が寛永9年(1632年)に因伯二国の領主となって以降は、鳥取藩家老職の荒尾氏が幕末まで米子城を預かるが、明治になって天守閣を始めとする建物すべてが取り壊された。米子城は、山上に本丸、内膳丸、山裾に二の丸、三の丸を配して水濠(現在は埋め立てられている)で囲んだ典型的な平山城で、近世城郭として、その歴史的価値は高い(現地説明板より)。

【米子城跡案内図】
鈴門(すんずもん)
登り石垣
内膳丸(ないぜんまる)
裏御門跡
二の丸跡
旧小原家長屋門
枡形(ますがた)
番所跡
鉄御門跡(くろがねごもんあと)
天守跡
四重櫓跡(しじゅうやぐらあと)
遠見櫓跡(とおみやぐらあと)
水手御門跡(みずのてごもんあと)
 中海に張り出した標高約90mの湊山(みなとやま)頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳丸、東の飯山(いいのやま)を出丸として配して、湊山ふもとの二の丸には領主の館を、その下の三の丸には作事場、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦には水軍用の御船手郭(みふねでくるわ)を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷がならびました。

 当時の米子城は、五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓)を持ち、「山陰随一の名城」とも称される壮麗な城であったといわれています。明治維新の後に城は払い下げられ、建物は取り壊されましたが、石垣などは現在も往時の姿をよくとどめており、天守跡からは秀峰大山、日本海、市街地、中海などが一望できます。平成18年(2006年)に、本丸、二の丸などが国史跡に指定されました(現地説明板より)。
 米子城跡<山麓>を巡る
米子駅から近い枡形虎口(駅から徒歩約15分)から訪城開始です。 (訪城日=2018年3月再訪問)
枡形虎口(二の丸の入口)
 三の丸から二の丸へ至る正門にあたる二の丸枡形虎口跡。進入すると左折れとなり、そこには二の丸への虎口が構える(右写真)。
 枡形は、入口を二重にして門への見通しを防ぐために作られた広場で、城主の行列の供揃いや、武士を寄せ集める時の集合場所に使われた。なお、ここから頂上(本丸)までは20分程度かかります。


枡形内から見た二の丸への虎口

 

二の丸への虎口石段上から見た枡形

枡形虎口全景


旧小原家長屋門
 城下にあった米子荒尾家の家臣小原家の長屋門を現在地(二の丸跡)に移築。米子市指定有形文化財。

三の丸跡
 国道9号線によって分断されている飯山から、湊山、内膳丸が築かれた丸山の北側まで巡る、内堀で囲った郭。現在では、一部が野球場、ホテルなどとなっている。


裏御門跡(二の丸の裏門)

裏御門跡周辺の石垣(二の丸石垣)

米子城跡<山上>を巡る

本丸遠見櫓跡から望む内膳丸(出丸)
 本丸より一段下がった丸山に築かれた郭。上下二段に配置されており、本丸の守りを強化する役目を果たした郭。
 この郭から本丸にかけて尾根を登るように石垣を築き、米子城の中海側の防衛線が設けられていた。

内膳丸を区切る石垣と石段
 2段に配置された一段目の郭(一の段郭)へと通じるところ。この場所から下った所に「登り石垣」が残っています。


内膳丸上・下段の郭を区切る石垣~手前が一の段郭、上がりきった所が二の段郭(写真下)。


二の段郭跡~東屋が建っている場所に二重櫓があった。


登り石垣
 内膳丸から見た本丸(写真上)に向かって延びる登り石垣。江戸初期までに登り石垣が築かれたと確認できる城は、米子城で全国5例目、中国地方では初めてとの事。

※登り石垣は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮半島の倭城の防備を固めるために採られた石垣普請の手法。竪石垣ともいう。国内では、竹田城(兵庫県)、淡路洲本城(兵庫県)、彦根城(滋賀県)、伊予松山城(愛媛県)で確認されている。幕末には鳥取城でも築かれたという。


登り石垣

本丸遠見櫓側から見た登り石垣
 中央の樹木が竪に伐採されている所に残る。


登り石垣
 内膳丸から天守遠見櫓(右上の石垣)にかけて尾根を登るように築かれていた。登り石垣は尾根から延びるような形状から名付けられ、石垣の上にさらに土塀を設け、敵の侵入を防ぐ目的がある。米子城の登り石垣には土塀は残っていないが、長さ約40m、高さ3mで、標高45~60mの湊山中腹部にあった。岩盤を削った上に自然石を4段以上の野面積みにしていた。一部は埋もれており、実際の長さは100m以上あるとみられる。
本丸跡 
<高石垣で囲った天守郭、水手郭、遠見郭、番所郭で構成>

番所郭の石垣
 本丸へ至る石段を上がった左は番所が配されていた番所郭。そして右方向の眺めが右写真となります。


天守郭
 小天守台(左端)と大天守台(右上)

大天守の石垣(東面)と控え石垣
大天守台石垣は直接高石垣を築かず、低い二段の控え石垣上に野面積で築かれている。 


大天守台石垣(南東面) 
 小天守台側から見た大天守台。天守台右下の平坦部は二段目の控え積み郭。


大天守台石垣(北東面)
 左奥は小天守台。
 

天守郭北面の石垣
 大天守台東側の控え石垣を横から見た様子。東側に二段、北側に一段の控え積み郭を持つ。石垣右側を登って行くと右写真の門跡となる。


冠木御門付近の石垣
 本丸内の門跡で、中に入ると大・小天守台が配置されている。

天守郭内
 東屋が建ち、左方は大天守台。写真には写っていませんが、大天守台と東屋の間に小天守台が残存する。


天守閣の礎石
 後方は、中国地方の最高峰「名峰大山(標高1709m)」
 
四重櫓台(小天守台)の石垣(南面)
幕末に積み直されている。隅は切石による算木積で、内側は石を整形して
積んだ打込接(うちこみはぎ)の形式が見られ、城内一の高さを誇る石垣。

小天守台石垣の隅角(南東面)
 右奥は大天守台の控え石垣と、その前(東側)は番所跡となる。


小天守台
 四重櫓石垣の角に明治時代以降いつの頃からか置かれた石は“忘れ石”と呼ばれている。忘れ石の後方は名峰大山。

番所跡
 御天守一帯を警備する役人詰所があり、昼夜見張番がおかれていた。右側の崖の下には竪堀が残る。

番所跡から見た竪堀


遠見櫓跡
 天守郭の北下段に位置し、眼下には中海が広がる。ここには、平屋櫓と二重櫓が建てられていた。


水手御門跡
 この門から降りると深浦側へ下る道へ続く。深浦には、御手船(水軍)の基地として、船小屋や櫓などの施設が置かれた。

本丸内から見た水手御門跡

石段下は鉄御門跡


鉄御門跡
 御天守の入口を厳重に固める鉄張りの堅固な二階建ての門が築かれていた。

 
米子駅から徒歩約15分。


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