このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

米沢城
所在地山形県米沢市丸の内
地形種類米沢市街地のほぼ中央に位置する平城
別名松岬(まつがさき)城、舞鶴城
遺構・現況内堀、土塁が残る。一帯は松が岬公園となり、桜の名所として賑わう。

【米沢城本丸】
本丸を取り囲む土塁と内堀が残る。本丸内も、廃藩置県後に廃城処分となったのち、かつて本丸御殿が建っていた一画には社殿が並び、神社の境内といった趣である。

▼城跡に立つ「上杉鷹山公像」

▼城跡に立つ「上杉謙信公像」

【交通】
JR奥羽本線・山形新幹線「米沢」駅からバス約10分。
【駐車場】
松が岬おまつり広場(無料)300台収容。

地域別訪問城に戻る

(上)内堀に架かる舞鶴橋  上杉氏時代、本丸への正門があった。 (左)本丸内の現状  本丸には謙信を祭神とする上杉神社が鎮座。

【沿革】
 鎌倉時代(1238年頃)、置賜(おきたま)郡長井荘の地頭大江時広が築城との伝承が残る。戦国時代には奥羽の名族伊達氏が城主となる。その後城主は、蒲生郷安、直江兼続と変わり、関ヶ原の戦いで西軍に属した上杉景勝は、1601年(慶長6)会津120万石から30万石に減封され米沢へと移された。

 城の修築は、1608年(慶長13)景勝が直江兼続に命じはじまる。しかし、減封による財政難と幕府への遠慮があり、石垣は使用されず、「土の城」とした。石垣を築く技術が得意でなかったことに加え、財政難が最大の原因であったと思われる。天守(天守代用の御三階櫓は持っていた)も建てられなかった。

▼上杉鷹山が残した名言

■城らしい遺構は本丸をとり囲む堀と、本丸北東隅の 御三階櫓跡ぐらいで、建造物は残されていない。 本丸全体が神社として利用されている。
 戦国時代は、奥羽の伊達氏が本拠とし、独眼流伊達政宗の誕生した城。
江戸時代は上杉氏の居城。

■上杉家は、第3代藩主綱勝が後継者を定めないまま病没したとき、お家断絶は免れたものの、30万石の禄高を15万石に減らされてしまう。米沢藩の財政は、禄高半減によって危機的状況に陥り、領地を幕府に返上することさえも検討された。1767年(明和4)、上杉鷹山は17歳で米沢藩第9代藩主に就任すると、藩政改革に着手し、みずから粗衣粗食を実践し、最終的には藩財政は改善された。


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください